谷村新司の中国と関わるきっかけ
谷村新司のヒット曲『昴』は中国で大人気です。
1981年に中国の北京で谷村新司は初めて昴を熱唱しました。
この時は、アリスとして歌ったのですが、日中の青年交流の事業で日本の代表として招待されました。
当時共産党副主席だった鄧小平(トンシアオピン)が主賓として来訪していて谷村新司は激励されたそうです。
次に、日中平和友好条約締結から40周年の節目にも谷村新司は訪中しています。
上海では1,700人、北京では3,000人が会場に来場したそうです。
最後に昴を歌った時に、中国の人々が日本語で大合唱してくれたそうです。
みんなが立ち上がりスマホのライトを向けて波のような感じになったそうです。
昴になると、何かが弾けたようになり、涙する人々も大勢いたそうです。
谷村新司は前代未聞の感動を味わったそうです。
谷村新司の中国における評判
2010年の上海万博開幕式で登場した谷村新司は、『昴』を熱唱すると会場がどよめき万雷の拍手喝采と感涙した多くの中国の人々を釘付けにしました。
開幕式後も余韻が尾を引き、谷村新司ファンクラブが雨後の筍のごとく誕生したそうです。
それだけ中国の人々の心に響き感動の渦を巻き起こしたのでしょう。
谷村新司は、「国の違いや言葉の壁は関係ないと感じた」と述べています。
ことほど左様に中国での谷村新司の評判は上々だったということです。
谷村新司の中国への影響
谷村新司の中国人への影響力は凄まじいものがあったようです。
特に2010年、中国の上海万博開幕式で登場した谷村新司の歌に多くの中国人が共鳴したのは驚天動地です。
この上海万博開幕式後、谷村新司のファンクラブが中国各地で多数誕生したそうです。
谷村新司の曲の中で『昴』はもちろんですが、『いい日旅立ち』、『風姿花伝』も人気があります。
谷村新司は、「今や世界が発見してくれる時代だ」と主張しています。
「日本人が忘却した日本の良さを海外の人々が見つけてくれる」と!
「だからこそ、ありのままでいいのだ」と!
すなわち谷村新司が中国人に影響を与えた部分もありますが、実は中国人に影響されて自分自身の存在価値を発見したのが真相かもしれません。
谷村新司の中国での役割
谷村新司の役割ですが、日中両国やアジア各国の交流を中心に歌を介して取り組んでいることですね。
交流を深める方法のひとつとして、腹を割って本音で話し合えるようになることだと思うのですが…
1984年に、谷村新司は中国のアラン・タム、韓国のチョー・ヨンピルと「PAX MUSICA(音楽による世界平和)」なるコンサートを始めました。
その際に、3人でぶっ倒れるまで飲み明かしたそうです。
それで、こだわり無く本音で話しができ、コンサートは大成功だったそうです。
要するに人間同士の繋がりは単純明快なものです。
それほど素直な谷村新司は、「文化が最後の砦」という気持ちを把持しています。
例え、政治や経済で国同士が衝突しても文化交流の細い糸が切れないようにするのが彼の役割だという自覚が強いようです。
谷村新司の中国での活動内容
谷村新司は、1972年当初はアリスとして活動していました。
1975年の『今なもうだれも』がヒットしてからは『冬の稲妻』、『チャンピオン』など次々にヒット曲が出ました。
中国の鄧小平(トンシアオピン)が1978年に訪日したことを契機として、日中の青年交流を目的とするコンサートが1981年に行われました。
谷村新司はアリスとしてこのコンサートに招聘されたのです。
これ以降、谷村新司は日中交流の中心的な役割を担っていくことになります。
しかしながらその後、不幸にも日中間には政治的理由で公演が延期されたり、交流が閉鎖されたりと色々な出来事がありました。
谷村新司は、障害が例えあったとしても決して交流の糸を切ったらダメだと考え辛抱強さを発揮していました。
まとめ
谷村新司は、本当に日中友好の要としての役割を充分に果たしています。
1981年8月23日にアリスが中国で初の単独公演を成し遂げました。
この公演をきっかけにソロとして谷村新司がアジアに関心を持った活動を始めることになったのです。
そうして谷村新司は中国で最も愛唱される歌手になりました。
彼の歌の50曲以上が中国語にカバーされていて、中国の歌謡曲界のスターたちにも熱唱されています。
今後も変わらず、谷村新司は日中友好の交流の絆を深め歌い続けていくことでしょう。