「日本国民を永きにわたって隷従的境涯に押しつけ、また世界に対して今次の
戦争を駆りたてたところのイデオロギー的要因は連合国によって超国家主義とか
極端国家主義とかいう名で漠然と呼ばれているが、
その実体はどのようなものであるかという事についてはまだ十分に
究明されていないようである。」という書き出しで始まる丸山真男の
『超国家主義の論理と心理』は一世を風靡した彼の代表的な著作であるが、
日本の学会・論壇における彼の不動の地位を確立し、今なおその鮮烈な光芒は
色褪せることなく光輝を放っているかのようである。
橋川文三も「日本ファシズム=超国家主義の無限遡及ともいうべきとらえ方である。
たとえば私たちは、そのもっともみごとな典型として、
丸山真男「超国家主義の論理と心理」の分析を想起することができる。」と述べて、
超国家主義の一応の定義づけを試みようとしている。
にもかかわらず、今日の時代状況のなせる技かどうか明確ではないが、
丸山の独断と偏見の部分が、僅少なものとは言え、浮彫りになってきつつあると考えるのは、
私一人ではないのではなかろうか。
敗戦直後のいわゆるアノミーな情況下で、渇いたのどを潤すかの如き知識人一般の
脳裏に強烈な印象を付与した面は否めない。
すなわち、戦後の知識人特に日本の学会への影響力というものは、
計り知れない程大なるものがあったと推量される。
それは、丸山以後の超国家主義論や日本ファシズム論の隆盛を慮れば
首肯できる事だと思う。
特に私の研究対象であるところの北一輝は「日本ファシズムの教祖ともいうべき
北一輝が大川周明・満川亀太郎とともに「猶存社」を作ったのは大正八年です。
後に二・二六事件の思想的背景をなした北の「日本改造法案」はこの
猶存社のいわば「わが闘争」であったわけです。」(p.34)と
丸山が述べたことによって、その後、長きに亘って北の真意を封印してしまったと
言っても過言ではないと思う。
北一輝の『日本改造法案大綱』はこうして、日本ファシズムの経典であるかの如き
断罪が下され、その内容の如何にかかわらずラベリングされ、封印されてしまったのである。
「日本の近代史においては、たとえばドイツもしくはイタリアに見られるような、
明確なファシズム革命というものがなく、いわばなしくずしの超国家主義化が
進行したために、その政治的要因として、一般の右翼思想・国家主義思想から
区別された超国家主義的契機を、それとしてとり出すことが特別に困難である。」
(橋川文三『超国家主義の諸相』)
こういう中で、北の著作を綿密に究明する作業は、ある立場からの例えば、
ファシズム論の観点から(これが最も数多いのではなかろうか)あるいは、
右翼運動史の位置付けからが顕著であった。
前者には田中惣五郎、安部博純等が後者には林房雄、岡本幸治等が列挙される。
私はこの論稿によって丸山の北に対する評価を逐一点検し、
それが丸山の誤謬であることを証明したい。
その際、丸山真男の超国家主義論あるいはファシズムに関して論述した
文献に絞って指摘していきたい。