近代日本の思想家吉野作造との比較で五四運動の存在意義

はじめに

北一輝の中国革命観を何故吉野作造と比較するのか。
本章においては、一見全く相反する政治思想を互いに把持している感のある
両者を比較する。
久野収が非常に興味ある指摘をしている。
久野の表現を借りると、「伊藤は、自分たちの芸術作品、天皇の国民、
天皇の日本をどう動かしてゆくかについて、非常な苦心をそそいだ。 … 逆に、
国民の天皇、国民の日本という結論をひき出し、
この結論を新しい統合の原理にしようとする思想家が、二人出現した。 … 一人は、
吉野作造、他は、北一輝であった。 」前述したように、久野収は北一輝を前向きに
評価した一人であるが、吉野作造と北一輝をこのような形で比較したのは
画期的な事であった。一見方向性の全く異質な感のする二人を照射することは、
日本の近代における思想家の位置付けをより明確化する試みである。
北一輝の政治思想を明確にする上でも非常に興味ある存在として、
吉野作造が挙げられる。辛亥革命に関してもこの両者は著述があるので、
比較することは各思想をより鮮明に出来うるのではないか。
吉野作造自身の次のような北一輝の『支那革命外史』への評価がある。
すなわち、「見識の高邁なるに敬服して態々同君を青山の隠宅に往訪して謹んで
敬意を表した 」さらに、「北一輝君の著『支那革命外史』は当時の青年革命家の然うした
気分を味うには恰好の参考書である。
篤志の研究家には是非一読をすゝめたい。もと此書は支那第三革命勃発の当時(大正四年)我国朝野の識者が常に支那革命運動の真義を誤視するを慨し、著者が一気に筆を呵して
孫文を革命の守本尊と崇めるの妄を痛罵し青年革命家の愛国的動念の為めに万丈の気焔を吐いたものである。 …
私に取っては啓発さるる所も頗る多かった。
大正四年稿本の寄贈を受けて感激し一日著者を青山の仮寓に訪うて
更に教を乞うたこともある。 」
このように、吉野作造は北一輝の『支那革命外史』を高く評価しているのであるが、
北一輝は、『支那革命外史』の中で内藤湖南については触れているが、
吉野に関しては一言のコメントも無いのは不思議な事である。
ところで、吉野作造によると近代支那の革命運動の根本思想は弊政を改革して新支那の復興を図るということにあるという 。
その改革の旗幟として排満思想が広く国民の心情に訴えた。ようやく満州朝廷は瓦解し、排満の口実がなくなると、次には第三革命において排袁思想なるものが運動を
牽引していったのである。
このような中国に対して吉野はどのように日本が対処すればよいのかという
提案をしている。日本政府の根本的な政策は支那の保全であり、自主独立の発達を
促進させることにある。
列国競争に刺激を受けて、中国における勢力範囲拡張につとめる必要もあると
吉野は主張する。
具体的に彼は次のように述べている。
「今日各国の競争から遺されて居る部分を隈なく渉猟って、其処に鉄道の敷設権なり、
鉱山の採掘権なり、其他日本の勢力或は利権を設定増進する凡ゆる手段を尽すのが
必要である。」
大隈内閣の対華二十一カ条要求は、列国からの抗議や、中国内の排日運動のうねりに
触発されたかのように、朝野から激越な非難の嵐が巻き起こった。
その代表的なものとして、徳富猪一郎の批判を次に述べると、「支那をして、
腰強からしめたる所以は、単り第三者の後援を恃みとしたるのみならず、
又た我か国論の不統一、元老の現内閣に対する意見の不一致等を探知し、一知半解、
針小棒大に之を受取り。日本輿みし易しとしたるものなからず。吾人は是を以て当局者の責任とし、且つ其の大なる手落と認めざるを得ず。 」
外相加藤高明が元老に相談もせず、事後にも通知もせず、秘密外交おこなったとして、
井上、山県等が激越に大隈外交を非難したことを指しているのである。
さらに、「今回の失敗の一半は、実に繋りて此の五号にあり。 」
この第五号を希望条項として提示したのであるが、当初この条項を列国に伏せて
交渉した事も諸列強の心象を害したのである。
日本は大戦の最中に火事場泥棒的行動を取ったと喧伝される羽目に陥ったのである。
このような二十一カ条要求に関して、吉野はつぎのような感懐を抱いているようだ。
対支交渉において、最後通牒によって、元老等の忠告を入れて第5項の各個条を
削除したのは疑問が残るということである。この対支要求を全体的に見て、
吉野は次のような感想を把持しているようだ。
すなわち、表面的には、支那の主権を損ねたり、面目をつぶしたりしている点もあるが、日本側からすると、最小限の要求である。中国に対して、日本の将来の地歩をしるす
上でも、極めて時宜にかなった処置であるという 。
この時点で大正デモクラシーの旗手である吉野が大隈内閣の対華二十一カ条要求を
おおむね了承しているのは、奇妙な感もある。
この当時の吉野は、かなり国家主義的で内田良平にかなり近似している。
前述したように、内田良平も第五号の実現を祈念していたようである。
しかし、吉野は後年、一連の発言を中国の事情を理解していなかったとして、
後悔している。
対華二十一カ条要求については、賛否両論があるが、伏線として孫文が
1915年2月5日に日本の民間人犬塚信太郎(前満鉄理事)等と交わした
「中日盟約」の存在も忘れてはならないことである。
その内容はある面では、第五号の内容と規模を上回るものであるということは
否定できない。
この当日には、二十一カ条交渉の第二回会議が開催された。
おそらく孫文らの第三革命派によって袁世凱を打倒した後の新政権樹立後の日中間の
国家関係を事前に規定したものであったのではないだろうか。
中国の内部においては、袁世凱が帝政実現に向けて、着々と足場を固めていた。
ところが、日本政府にとって袁世凱は遠交近攻そのものの英国を使ってあまりにも
策を労するので、従前から好意を持っていなかった。
二一箇条交渉の時にも、袁世凱の帝政実現に賛成なら日本の要求を呑もうと提案し、
日本がこれを拒否すると、交渉が延々と遅れ、最後通牒を出すやいなや、
排日運動を煽動するといった態度であったので、信頼がなかった。
そのうちに情勢が一変し革命党の反乱が発生していた。
そうしてついに、南方において、1915年12月に第三革命が勃発した。
この時点では、北方軍閥さえ袁世凱を支持せず、彼はほぼ孤立状態で
あったにもかかわらず、吉野はこの第三革命に関しては、革命党が成功するのは極めて
難しいと判断している。
吉野は非常に現実的な考え方で、戦勝は金をどれだけ集められるかにかかっているという。外国人の信用を得て、借金できて、なおかつその金を使えるものが戦に勝つという。
それは袁世凱をおいて他にいないと吉野は断言する。
袁世凱に対しては、外国人がいくらでも金を貸すだろうと、
それ故革命党には勝ち目がないと吉野は結論付けるのである。
これは変革を恐れる陸軍の大御所である山県有朋とほぼ同じ考えである。
頑迷固陋な山県は中国は袁世凱レベルが支配するのが、
日本にとって安全だと思いこんでいた。
帝政実現という時代錯誤の袁世凱に対して、中国民衆も黙っていなかった。
やがて中国全土から排袁運動が巻き起こってくるのである。

 

第1節 吉野作造の略歴

吉野作造は1878(明治11)年、1月29日に宮城県古川市で綿屋の長男として出生した。11人兄弟で弟の信次はのち商工大臣となった。
1900(明治33)年、東京帝国大学法科大学政治学科に入学する。
この年に本郷教会に入り、『新人』の編集に協力した。
1902(明治35)年、社会主義に興味を持ち、大学では一木喜徳郎の国法学と
小野塚喜平次の政治学に傾倒していた。
1904(明治37)年、「露国の満州占領の真相」(『新人』)・「ヘーゲルの法律哲学の基礎」(『法学協会雑誌』)・「大に黄禍論の起れかし」(『新人』)を発表する。
1905(明治38)年、「本邦立憲政治の現状」(『新人』)において主民主義を提唱する。
さらに『ヘーゲルの法律哲学の基礎』を刊行する。
また島田三郎、小山東助等と「朝鮮問題研究会」を開始する。
1906(明治39)年、中国に渡り、袁世凱の子息克定の家庭教師になる。
また「再び支那人の形式主義(再び)」(『新人』)を発表する。
1907(明治40)年、袁の軍事顧問坂西利八郎の紹介で直隷督練処翻訳官になる。
この年、北洋法政専門学堂教習になる。
1909(明治42)年、帰国して東大助教授(政治史担当)に赴任する。
1910(明治43)年、ヨーロッパ留学するが、渡航の際に後藤新平から1500円の
援助を受けた。
この年6月にはマルセイユに到着しドイツに滞在する。
1911(明治44)年、ドイツに滞在している時、佐々木惣一と知り合う。
1913(大正2)年、フランス・ドイツ・イギリス・アメリカを経由して日本に帰国する。『中央公論』の滝田樗陰に出会い、生涯の交流開始する。
1914(大正3)年、「学術より観たる日米関係」(『中央公論』)によって
論壇デビューする。
「民衆的示威運動を論ず」(『中央公論』)を発表する。
友愛会評議員・東京帝国大学教授(政治史)となる。
頭山満、寺尾亨等に依頼され中国革命史執筆に取り組む。
その際、載天仇、殷汝耕等と交流し中国革命に傾注する。
1915(大正4)年、6月に佐々木惣一等と大学普及会を組織するとともに、
『国民講壇』を発刊(9月には終刊)。『日支交渉論』・『欧州動乱史論』・
『現代の政治』を発刊する。
1916(大正5)年、
「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」(『中央公論』)によって
民本主義を提唱し、論壇に衝撃を与える。
「対支外交根本策の決定に関する日本政客の昏迷」(『中央公論』)を発表する。
この年、朝鮮・満州旅行に旅立ち、帰国後「予の憲政論の批評を読む」(『中央公論』)を発表する。
『欧州戦局の現在及将来』を発刊する。
「満韓を視察して」(『中央公論』)によって朝鮮統治を批判する。
1917(大正6)年、「現内閣の所謂対支政策の刷新」(『中央公論』)・「露西亜の政変」
(『中央公論』)を発表する。
『支那革命小史』・『戦前の欧州』を発刊する。
1918(大正7)年、「我国の東方経営に関する三大問題」
(『東方時論』)・「所謂出兵論に何の合理的根拠ありや」(『中央公論』)を発表する。
吉野作造を中心として、赤松克麿・宮崎竜介等が普選研究会・新人会を結成する。
「言論自由の社会的圧迫を排す」(『中央公論』)を発表する。
さらに神田南明倶楽部において浪人会と立会演説会を実施する。
この年、福田徳三と一緒に黎明会を結成する。1919(大正8)年、黎明会第1回講演会で開会の辞を述べる。
黎明会第3回講演会において「先づ自己を反省せよ」として、政府の朝鮮統治政策を
批判する。
黎明会第4回講演会では「支那問題に就て」を述べる。
『普通選挙論』を発刊する。「対外的良心の発揮」・「朝鮮暴動善後策」・
「朝鮮に於ける言論の自由」(『中央公論』)を発表する。
さらに「北京大学学生を漫罵すること勿れ」・「北京大学に於ける新思潮の勃興」
(『中央公論』)、「北京大学学生騒擾事件に就て」(『新人』)において
五・四運動の正当な理解を提示する。
「民本主義・社会主義・過激主義」・「狂乱せる支那膺懲論」
(『中央公論』)、「支那の排日的騒擾と根本的解決策」(『東方時論』)を発表する。
この年、友愛会が本格的労働組合に成長し「大日本労働総同盟友愛会」を結成し、
吉野作造も評議員に推挙される 。

 

第2節 吉野作造の第一革命論

2-1 武昌起義

吉野作造は第一革命のそもそもの起源は東京において中国革命同盟会が
結成されたことだと指摘している。
次に革命の原動力として孫文と黄興の提携が大なるものであり、
それから武昌起義における清朝軍の有力者である総督瑞澂・師団長張彪将軍の逃亡、
最後に宋教仁の活躍が顕著であったという点に尽きるということである。
第一革命の原動力は、なんと言っても孫文と黄興の握手によって成立した
中国革命同盟会の存在が大きい。
この孫文と黄興の提携実現の仲介役となったのが、宮崎滔天である。
まず同盟会結成のための下準備として、内田良平宅で孫文先生歓迎会なるものが
開催されたのであるが、予想以上に盛況であった。
そのため官憲の警戒するところとなったので、中国革命同盟会の発会式は秘密裏に
赤坂霊南坂の坂本金弥の別邸で開催された。
この発会式で、孫文総裁、黄興実行部長、宋教仁・張継等が幹事に選出され、
本部が東京に置かれ、上海・香港・シンガポール等に支部が設置された。
中国同盟会成立後、早速『民報』なる機関紙が発刊され、同盟会は留日学生を
啓蒙したり、中国国内向けに遊説を開始するため多くの人材を派遣していったのである。宋教仁の活躍は著しく譚人鳳と組んで揚子江沿岸を革命運動の拠点とし、
同盟会の別働隊組織とも言える中部同盟会を作り、『民立報』という機関紙も上海で
主宰していた。
程なく、宋教仁にとって好都合な事に、鉄道国有問題が発生した。
鉄道国有化によって外国から借金が出来るので、逓信省は当時非常に旨味のある
省庁であった。逓信大臣であった盛宣懐は清朝の財政悪化を補填するためにも英断を下し、鉄道国有化に取り組もうとしたが、猛反対に遭遇した。
特に四川省と湖南省においてその反抗が著しかった。
宋教仁はこれを契機として、武昌を中心として決起の準備に余念が無かった。
そうこうするうちに、1911年10月9日に突然の爆弾騒動から、火を噴いて、
同夜決起するに至ったのである。
張振武・蒋翊武等が敵将黎元洪を急襲し、寝返りさせた。
当時黎元洪は武昌軍の大物の1人で人望もあったので、
翌10日には総督瑞澂・師団長張彪将軍も武昌から逃亡した。
その結果、瞬く間に武昌起義は成功を収めたのである。
10月11日、黎元洪を武昌都督として推挙し、独立宣言をした。
宋教仁はこの起義には遅れてしまったので、彼の共和国宣言すべきという提案も、
黄興等の反対によって一蹴されてしまった。
にもかかわらず、1912年からは中華民国元年と称したのである 。

 

2-2 清朝の対応と袁世凱

10月10日武昌起義の報に接した清朝は周章狼狽した。
清朝は盛宣懐を更迭し、この難局を収拾するのに袁世凱を起用しようとした。
11月初旬になり遂には、内閣総理大臣の大命まで袁に授与したのである。
袁世凱に関しては、稀代の梟雄というイメージが強く、策士的要素があるというのが
通説のようであるが、果たして吉野作造は袁世凱をどのように見ていたのであろうか。
袁はこの時期、清朝内で実権を確保するために、どのような手立てを打ったかというと、資政院に袁の息のかかった趙秉釣を潜り込ませ、彼を意のままに操り、
満人の兵士は郊外に追いやり、張紹曾を辺境の大臣として駆逐したりなど、
袁にとっての障害物を排除し北京を十分に安全にしてから入京した。
その後直ちに意のままに内閣を組閣し、政務を執るのに、宮中に出仕せず自宅で行い、
政府をあたかも自宅に移転したかのようなものであった。
それから12月6日摂政王が退任したことで名実ともに袁世凱が北京朝廷の
実権者となったのである。
袁世凱が最終的に清朝を葬り去ったのは、年来の謀略であったのか、吉野作造はこれを部外者の妄想に過ぎないとして否定する。
というのは事前に革命党の中で袁と通謀していたという者が存在しないからである。
しかし北京に入京する途次で革命党の領袖と初代大総統と交換条件に清朝廃滅の
約束をしていたという説もあるが、その可能性なきにしもあらずだが、
これは後日談に過ぎない類の説であると吉野は主張している。
また袁が北京入京の際、個人的に清朝を倒壊し自らの天下国家を
獲得しようとしたのかというと、そうでもない。
彼は清朝の要請を受け、難局終息の実績をあげ、栄光を引き寄せようという
野心を抱いたとは思うが、一方に加担していくというような明確な展望は
把持していなかったと吉野は考えるのである。
しかし袁の対応が状況に応じて変化していったのは確かなことである。
革命党が勢威を鼓舞するにつれて袁は革命党に連絡を取った形跡がある。
それは密使を黎元洪の所へ送って、袁が清朝への忠節と漢人という民族的義務との間で
どの道をとるか遅疑逡巡している旨を密使を接見した黎元洪・宋教仁・胡英に伝えている。こういう点から判断すると袁は徹底して清朝を擁護するつもりがなかったことは
明白である。
また共和政体に賛同したからでもなく、事態の収拾のためやむを得ずとった
行為であることも明らかである。
袁世凱が北京に入京した後でも、数度の上奏文で共和の必要性を主張している。
また国事匡済会という組織を作って共和論を宣伝したりしている 。

 

2-3 袁世凱と南北交渉

袁世凱が革命党を鎮圧しようという意志が無かったことは北京側の
講和全権大臣である唐紹儀を通じて共和に反対では無い旨を明白に黄興に
述べたことである。
しかしながら彼は直ちに清朝を見限って革命派に組するかというとそうでもない。
情勢の進展を眺めつつある時点で、清朝にかわって自分が北京の実質的中心となり、
革命党とある程度妥協しながらあまり苦労せずに、天下を手中におさめることを
考えたのであると吉野は主張する。
革命党と妥協するにも、できるだけ好条件でということが袁の念頭にあったに違いない。そこで打った手段が漢陽での勝利である。
馮国璋を大将にして、革命党の黄興を打ち破ったのである。
さらに武昌に進撃して落すことは容易であったが、袁は段祺瑞を派遣して
馮国璋を呼び戻し、革命党と対峙させた。
この段祺瑞の政治的識見によって革命派を丸め込んだのである。
袁は武昌を落しても革命党全体を攻略できる自信が無かったというのが真相であると
吉野は述べている。
そこで革命党と妥協するのに出来るだけ有利な条件を勝ち取るために漢陽での勝利の後、段祺瑞をあて、交渉にあたらせたのは袁のしたたかな計算であった。
革命党は漢陽では敗れたが、南京では勝利したのである。
南京陥落の後12月3日に宋教仁の筆による中華民国臨時政府組織大綱が決定され、
これに基づいてやがて南京に共和政府が成立したのである。
この共和政府設立に至るまで、さまざまな内紛がありようやくまとまりがついたのが
孫文の登場によってであった。
それは黄興を大元帥に黎元洪を副元帥にするという提案が出されたのであるが、
喧喧諤諤の論争が湧きあがって収拾のつかない状態に陥ったのである。
黄興も間に立って苦労し、みずから敗軍の将であるからとこの地位を辞退したため、
紛糾はさらに拍車がかかった。
そこへ孫文が登場したことにより、彼は不偏不党であるからということで大総統に
推挙されたのである。
北方の漢陽の勝利と南方の南京占領よって南北互角の状況になったので、
ここで英国領事の仲介で、休戦条約を結び、講和談判を開くということになった。
この講和談判では唐紹儀が北方の呉廷芳が南方の代表者となった。
12月18日から31日までの間、計5回の講和談判が実施されたのであるが、最終的には決裂するのである。
それは北方が君主立憲を南方が共和主義を主張し互いに譲歩しなかったからである。
袁世凱にとって容易に清朝を裏切るわけにいかなかったので、粛親王等の反発も
考慮しながら種々の策を弄したのであるが、決定を先送りして遅疑逡巡する結果となった。この結果、革命党は袁世凱の真意を疑い始めた。
そこで革命党の側の突出分子が1月16日に袁世凱に爆裂弾を見舞ったのである。
さらに1月26日には清朝の忠実な軍人である満人良弼が爆殺されたのである。
袁世凱は武力対決によって革命党と雌雄を決しようという考えは毛頭無かった。
単に清朝をうまく料理し徐々に押し退ける潮時を探究していたのである。
講和談判が決裂しても革命党と断絶するつもりはなかった。
そこで臨時大総統になった孫文と電報によって南北妥協の
交渉をすることになったのである。
革命党は南方の政府に袁世凱が入ってくるという形式を取りたかったが、
袁は清朝退位の時に後始末を自分に託し共和政府を作り、そこに南方を取りこむという
形式にしたかったのである。
数度の交渉を経ていよいよ袁世凱に政府を譲渡するという段階になって、南京に足を運び政府を受けるべきだと孫文は主張したのであるが、袁は清朝が自分に政権を
委託したということを楯にして北京政府主体論を撤回しなかった。
とうとう孫文は袁の北京政府主体論に譲歩したが、大統領就任式典だけは南京で
実施することを主張した。
ようやく袁もこれを承認し、ここに南北妥協が成立したのである。
孫文が徐々に袁世凱に譲歩していったのにはいろいろな理由が挙げられる。
まず第一に休戦が長引き革命党内部に内訌が始まったということである。
宋教仁の勢威が増大しそれに対する反発が起ったということである。
袁はさすがにこの機会を捉えて買収運動を開始し革命党内部の切り崩しをはかった。
特に袁の密使であるモリソンは30万円をばら撒き革命党内部を撹乱した。
第二に日本政府当局と軍の動揺が挙げられる。当初日本の外務省は北方寄りであり、
陸軍は南方寄りであった。
南北妥協談判の経過していく中で、日本政府は革命党に加担している日本人を厳しく
取締る方向に転換してきた。
日本のこのような対応の急変が中国人を失望させたことは言うまでも無い。
第三に日露が結託して満蒙分割の挙に出るという風説があったことが挙げられる。
この説は袁が流布したということもあるが、革命党の愛国心を刺激し、
南北が内紛している場合ではないと、やむを得ず南北妥協に至らしめたのである。
第四に南方に資金が枯渇していたのも妥協の一要因である。
漢冶萍を担保にして日本側から資金を引き出す予定であったが、いろいろの理由から
座礁したので全く金のない状態であったという。
それで袁世凱に譲歩せざるを得なかったのである。
このようにして孫文と袁世凱との交渉は妥結したのであるが、問題はどのようにして
清朝退位をはかるかであった。
ここで袁に利用されたのが日本である。
当時日本は清朝支持に深く関与し過ぎていたのである。
袁世凱が立憲政体支持のため実質的援助を日本にもとめたが、日本は躊躇したために、
袁世凱の利用するところとなった。
つまり袁はあくまでも立憲君主政体でいくつもりだったが、
日本が援助しなかったのでやむを得ず共和政体に賛成したという方向に
持っていったのである。
袁はさらに清朝が退位せざるを得ないように事を運んで行ったのである。
こうして孫文も辞職し臨時大総統の改選が実施され、袁世凱が推挙されたのである。
ここにおいて第一革命は成就したのである 。

 

2-4 袁世凱の専制支配と宋教仁

袁世凱に譲歩に譲歩を重ねて南北妥協した形になったため、共和主義擁護の手段として革命派がとったいくつかの方法があったが、悉く袁の策略で失敗を重ねていった。
まず第一に、袁世凱の大統領就任式を南京で開催することであった。
というのは革命派は政府を南京から移すという形にしたかったのである。
ところが北京天津の各地域で略奪が横行し、不穏な動きがあるということで袁世凱の
南京行が中止され3月10日袁は北京で大統領就任式を開催したのである。
後で明らかになったのであるが、袁世凱の放った兵士が略奪を意図的に行い騒擾を
作り出していたとのことであるという。
これによって袁は北京を留守にすると外国の干渉を誘致してしまうということで危機感を煽り南方を説得したのである。
こうして第一の方法は袁によって葬り去られたのである。
第二に、新憲法を制定することによって袁世凱を牽制する方法である。
内閣によって袁世凱の権能を制限するというものである。
宋教仁の手によって憲法草案を是正し内閣各大臣の任命に関してはその都度議会の承認が必要なものにした。
第一次内閣は唐紹儀内閣であったが、袁世凱との確執は凄まじいものがあった。
責任内閣主義の方針を唐紹儀はとったので、袁はこれを妨害し始めたのである。
いわゆる唐紹儀の責任内閣主義と袁世凱の大統領専制主義の激突の様相を呈したのである。直隷都督を王芝祥に任ずるということでその対立が頂点に達し、とうとう唐紹儀は辞表を叩き付け、天津に去ってしまった。
それで宋教仁以下の革命派の大臣連も唐紹儀の後をおって辞職した。
その後の内閣は袁世凱御用達の内閣になってしまった。
結局、革命派の責任内閣主義は破綻し、袁世凱の大総統専制主義が勝利をおさめた
形になってしまった。
第三に、内閣での圧力に失敗した革命派は今度は議会によって袁を牽制しようと試みた。中華民国臨時約法と国会組織法に基づき上下両院で構成される議会が成立するにあたって、総選挙が民国2年3月に実施されることになった。
南方派はこの議会で多数を占め袁世凱の横暴を圧殺しようと考えた。
総選挙の結果は国民党の圧勝に終った。
袁世凱の御用政党である共和党は多額の運動資金を投じたり、干渉・買収を果敢に
試みたが、敗北してしまった。
参議院はほとんど全員が国民党で占め、衆議院は596名中360名以上が国民党員という
絶対多数を占めたのである。
この選挙運動の中心人物であった宋教仁が袁世凱の放った刺客によって、
3月20日上海駅頭で暗殺されてしまったのである 。

 

第3節  吉野作造の第二革命論

この宋教仁の暗殺によって袁世凱に対する敵愾心は増幅されたのである。
南方派は武力解決によらなければ袁の専横を阻止できないと考える者も出てきた。
そこで南方派を固めようとしたのであるが、袁はこれに対して迫害を加えたのである。
袁の密命を受けた趙秉釣と陸建章が闇から闇に葬った数は数知れないという。
革命派は常に暗殺の危険状態におかれたのである。
これと同時に買収工作も盛んに行われたようである。
袁世凱は多数の密偵を動員して、革命党の機密を探索し、また各省に部下を配属し、
革命派を攻略していった。
次々に革命派が各地の重要な地位から転落していったのであるが、窮鼠猫を噛むの
例えのように、江西都督の李烈釣・広東都督の胡漢民・安徽都督の柏文蔚が
決起したのである。
これに呼応して黄興も7月15日南京において討袁旗を掲げた。
7月17日に至って岑春煊を討袁軍大元帥に担ぎ上げたが、この戦争は日本の来援もなく、中国人の間で支持もなかったので、惨憺たる敗北に終ってしまったのである 。

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