北一輝と辛亥革命 ―純正社会主義における辛亥革命観―

はじめに

北が何故、危険に曝されることが十分に予想されたにもかかわらず辛亥革命の渦中に

身を置いたのかというと、それは、日本思想に啓発された留日学生が中心となった

革命の進展状況を自分の目で確めたかったということであろう。

また北の「純正社会主義」という政治思想からみて、国家の進展のためには

まず民族統一による独立国家として保全されることが前提になる。

北にとって封建的な貴族国家から近代的な公民国家になろうとする当時の中国は、

単なる隣国というわけではなかった。

さらに、北は日本の独立を守りつづけるためにも独立国家としての

中国の保全が欠かせないものだと確信したので、辛亥革命の中国に渡った。

このような行動は、北の政治思想的な信念がいかに確信的なものであったかを示している。

北は中国の革命が日本の維新革命をモデルとし展開していくと信じていた。

また北の目にみえる当時の中国の革命状況は、あたかも維新革命後「逆倒」して行く

日本をそのまま照射しているかのようであった。

北にとって維新革命後の日本は「公民国家」を達成したにもかかわらず、

程なく「経済的貴族国家」に堕していったということである。

それ故、北は、国家発展の過程から軌道を外れた最たる大逆事件を契機にして

「神隠しの如く」中国の辛亥革命の渦中に身を置き、

中国の国家発展を彼の進化論の軌道に乗せることを希ったのである。

にもかかわらず、辛亥革命政府内部において内紛が絶えず、

また革命援助を期待した日本政府も軸足が一定しなかった。

当時革命政府は北の考える革命本来の軌道から脱輪しながら迷走を続行していた。

それに対して、革命進行を鳥瞰している北の姿が屹立しているかのようである。

すなわち北は、個の力では如何ともし難い歴史の流れ、

錯綜した革命政府内及び日本政府・日本陸海軍等の意見の不一致等々に直面し、

無限の孤立感を抱いていた。

しかし中国が公民国家になる前のこれらの障害物が存在したにもかかわらず、

北は真摯に中国革命を捉え、身を危険に曝しながら挺身していった。

このように、北は、我が身を革命渦中に投じ、

その一方で、『支那革命外史』という大作を世に問うたのである。

この『支那革命外史』の八章南京政府崩壊の経過までを1915年11月に書き上げたが、

これは北の2回目の渡中国の前年であった。さらに1916年4月に後半部分を完成し、

頒布を急ぎ、再度6月に上海に渡ったのである。

この著作で特に北が強調した点は、対華二十一カ条要求での

対中国交渉を不本意であると主張したことと、

対中国策及び対外策のあらゆる場面において日本は日英同盟に依頼せず、

日米の協調的握手を指示したことであるという 。

このような北の主張は、もちろん中国が民族統一の国家として

近代国家あるいは「公民国家」となる前の中国の保全のためのものであった。

つまり北一輝の外交政策的主張の内容は、北の政治思想や政治的活動を正確に理解する上で

重要なものとなるに相違ない。

一方、北の辛亥革命観は、当時中国革命を中国における日本の利権経営の好機と捉え、

西洋諸国とともに利権競争に駆り立てる政策を展開した日本政府当局者の観点とは

非常に対照的である。

ここに北の政治思想や国際政治的観点の独自性が顕著に見えてくる。

したがって本稿の目的は、第一に中国に渡り、辛亥革命の渦中に身を投じた

北一輝が退去命令による帰国後『支那革命外史』を執筆し、更に渡中するのであるが、

この著作における北の考えと目的を明確にすることにある。

第二に北一輝なりの外交戦略を主張しているが、

ここで述べられる国際政治に関する北の状況認識や外交戦略は現時点においても

それほど知られていない。

この面において北の主張する具体的な外交政策の内容を明らかにするとともに、

日本政府当局者の政策の内容と比較してみる。

第三にこの著作で主張している北なりの外交政策の内容と

国際政治への状況認識が純正社会主義・国家進化論に根ざした北の根本的な政治思想と

どのように繋がっていくかを明らかにする。

このように、北一輝の政治思想の根幹を踏まえて辛亥革命を把握しようとする試みは

未だに存在しないのである。

さらに、辛亥革命は日本の明治維新を範としているが、

日本の維新革命後の急変は近隣諸国に多大な影響を与えたと言える。

しかし史料の不足から中国の革命運動と日本の関係の研究は、まだまだ不明な点が多い。

北の著作や中国からの彼の電文を分析することから、

当時の日本の権力者たちの考え方や日本と中国の関係に関する新たな部分も見えてくる。

本稿の構成としては、Ⅰを北一輝の中国渡航前後の状況を説明する節として位置づけ、

Ⅱを主として北の著作から引用できる北の主張を紹介する節とする。

Ⅰ 中国渡航とその理由

北一輝(1883 –1937)は生涯のうち実に、2割以上の歳月を、

1911年10月10日に勃発した辛亥革命に費やした。

辛亥革命に関して、北は理解と同情を示し、

革命の渦中に飛び込み、砲煙弾雨の中をくぐり抜け、敢えて生命の危険をも顧みず

東奔西走し活躍した。

このような北一輝の中国革命に参加した目的・動機などを検証するのは、

北の政治思想や政治的活動を理解する上で意義深い事と思う。

北の中国渡航のはじまりは次のようである。

1911年10月10日に武漢において革命の烽火があがって、

まもなく内田良平のもとへ宋教仁から日本人派遣要請の電報が届いた 。

そこで、内田はかつて宋教仁の送別会を赤坂峯の尾で開いた際(1910年の冬)、

「革命の挙兵があれば、援助する」という約束を果たすために、

ただちに北一輝、清藤幸七郎を中国に派遣した 。

これに呼応するかのように、犬養毅の配下にあった大陸浪人の

宮崎滔天・萱野長知も中国に渡ったのである。

日本の外務官僚である駐清公使の伊集院彦吉はこれら大陸浪人の渡中に対して

「宮崎浪花節初メ此種雑輩の混入セルコト」 と軽侮感を抱き、苦々しく思っていた。

ところで、辛亥革命は日本の朝野をあげての関心事であった。

日本政府は1911年10月24日に辛亥革命に対して「……満州ニ関シ露国ト歩調ヲ一ニシテ我利益ヲ擁護

スルコトヲ計リ、一方出来得ル限リ清国ノ感情ヲ融和シ彼ヲシテ我ニ信頼セシムルノ方策ヲ取ルノ

外、英国ニ対シテハ飽迄同盟条約ノ精神ヲ徹底スルコトニ努メ……」 というような

閣議決定をしている。

また、頭山満・内田良平をはじめとする大陸浪人(支那浪人)たちは、

革命運動に多大なる関心を示した。大半が玄洋社・黒龍会系の人々であったが、

自由民権思想の流れをくむ義侠型の志士宮崎滔天も、初期社会主義運動や

無政府主義運動に関わりのある幸徳秋水・堺利彦等も興味を把持していた。

そのような中にあって北一輝は中国問題と深くかかわっていくことになり、

黒龍会派遣で機関誌「時事月函」記者という肩書きで中国へ渡航したのである。

北が中国に渡航した理由として大体次の3点が考えられる。

まず第1に日本国内においては、言論の弾圧があったこと。

第2に亡命中国人や中国人留学生との交流に刺激され、

日本国内での中国革命運動の結社形成に参画したこと。

また中国革命運動の主役とも言うべき宋教仁や孫文と知り合ったこと。

第3に西欧植民地化の防波堤として中国を見なし、ここで中国に革命を起こし、

近代国家を形成しないと日本も西欧の植民地になってしまうという危機感からであった。

(1) 国内における言論弾圧

北の渡航理由の第1に国内における言論弾圧が挙げられる。すでに1900年に山県内閣は

治安警察法を成立、公布して、労働運動や各種集会・結社等に弾圧の手を染めていた。

ところが、1906年に第一次西園寺内閣が成立し、内相は原敬で西園寺・原両者とも

社会主義運動に対しては寛容であり、元老山県有朋は苦々しく思い常に批判的であった。

同年1月には片山潜・堺利彦を中心に日本社会党が結成され、機関紙『平民新聞』を発行し、

旺盛な活動が行われた。

この日本社会党の中でクロポトキン流の無政府主義とアメリカのサンジカリズムの影響を受けた

幸徳秋水は時代閉塞の状況を打破せんとして、直接行動論を主張した。

彼は直接行動に訴えることによって一気に無政府主義を達成しようした。

その過激さ故に党内でも激烈な論争を惹起し、そうした中で、

1910年の6月1日に幸徳秋水が引致された。

有名な大逆事件がそれである。

それから芋づる式に全国的規模で検挙が開始された。

幸徳秋水は、発禁処分となった処女作『国体論及び純正社会主義』を通じて、

北と極めて接近していた。幸徳の人名備忘録にも北の名が掲載されていた。

このようないきさつがあったので、大逆事件の検挙が開始されるとともに、

北も当局に引致されたが、すぐに釈放された。北は中国革命運動の支援に動き、

革命者の中に生活していたために、「幸徳秋水事件の外に神蔭しの如く置かれたる」というように

大逆事件の災厄からかろうじて免れたのである。

このような社会主義者や無政府主義者が一網打尽に逮捕され、

処刑されるという日本国内の情勢と同時に、北は処女作である『国体論及び純正社会主義』が

発禁処分となり、学者とか評論家としての道を閉鎖された。

このように国内で活躍する術を失っていた北の関心は徐々に中国革命に向けられていった。

(2) 国内における革命結社形成

1905年7月孫文の三度目の来日 を契機として、在日の各種の革命団体は黒龍会の援助のもとで、

8月20日に「中国同盟会」に統合される 。さらに、北は宮崎滔天の紹介で孫中山に

会うのであるが、その後、12月に北はこの中国同盟会に参画して、

同会の日本人部のメンバーとなり、神田錦輝館で演説をぶっている 。

この頃北は交流のあった章太炎と張継を3年後に大逆事件によって刑死する

幸徳秋水に紹介している。当時、北は単身早稲田付近で下宿していたが、

その頃革命評論社の人々との交流が頻繁であった。

そのうちに黒龍会の内田良平とも面識を持つようになった。

この内田良平との縁によって中国渡航が可能になるのである。

ところで、宮崎滔天は「革命評論社」を結成するのであるが、

この『革命評論』の執筆者として、和田三郎、清藤幸七郎、萱野長知、池亨吉、

福住克己等がいた。

創刊第一号の内容であるが、「発刊の辞」と「支那留学生に就て」を滔天が執筆し、

和田三郎は「欧州革命の大勢」で主にロシア革命について論じ、

清藤幸七郎は「支那の暴動」で、1906年7月から8月までの暴動を列挙している。

萱野長知は「露清の革命は急速なれ」で地球上の民衆を救えと訴えている。

池亨吉は「志士の風骨」でバクーニンを紹介している。

第二号以下の「革命評論」の論調であるが、日本の国内問題にはあまり触れずに、

全般的にヨーロッパ、ロシア情勢を述べ、革命の必然性を強調している。

さて宮崎滔天であるが、この『革命評論』第一号(1906年9月5日発行) を北一輝のもとに送り、

11月に招聘の手紙を送付した。

早速、北一輝は1906年11月3日に同社を訪ねている 。

その後、『革命評論』第六号・八号に北の著作である『純正社会主義の哲学』の広告が

掲載された。

こうして、北一輝は革命評論社の同人となったが、彼が「革命評論」で執筆したものが、

第六号(1906年)に掲載された「自殺と暗殺」である。

ここで北は外柔という筆名を使用している 。

この「自殺と暗殺」後の著作である『支那革命外史』の中でも北は「少くも支那革命に於て暗殺が

革命成否の全部を決定せる実証を見しことを特筆す。」 と述べている。

これはあくまでも清朝存続を主張していた袁世凱の考えを吹き飛ばした袁世凱暗殺未遂と

良弼爆殺事件を指している。

この「自殺と暗殺」の書き出しは「余輩は煩悶の為めに自殺といふものゝ続々たるを見て、

或は暗殺出現の前兆たらざるなきやを恐怖す。」 で始まり、「あゝ誰か煩悶的自殺者の一転進して

革命的暗殺者たるなきを保すべきぞ。」で終っている。

これは1903年5月に華厳の滝に身を投じた藤村操の自殺に影響され、

続々と自殺者が出たことを指している。

当時の社会世相は、石川啄木が時代閉塞の現状として、捉え、理想や方向性がなく出口を喪失し、

内向的・自滅的な理想喪失の悲惨な状況だと認識したこと。

また、芥川龍之介の前途に対する不安という表現の中に窺えるように、

国家権力による言論・思想の弾圧による逼迫した空気を醸成していた。

このような状況下において北は、処女作が発禁処分にあった経験のなせる技か、

「万世一系の一語に撃たれて悉く白痴となる。」 というような直接的な批判を避け、

反語あるいは婉曲的な表現方法を駆使している。

すなわち、「万世一系の皇室を戴き万国無比の国体に

生息するもの只忠君愛国の道徳あれば足る」にもかかわらず、

なぜ煩悶する必然性があるのかと疑問を提示する一方で、

「煩悶とは……叛逆を企つる内心の革命戦争なり」と高らかに断定している。

北は「土下坐に汚れたる良心」(奴隷の良心)を把持し、個人・自己・人格なるものがなければ、

煩悶が発生しようがないと断言するのである。

当時の出口なき暗澹たる社会情勢の中、かろうじて中国革命にその傾いた道標を見出した

北の胸中は、屈折したどうしようもない内心忸怩たる思いがあった。

そのような渦中で、この革命評論誌上において「自殺と暗殺」というタイトルを使い、

心情をぎりぎりの表現で吐露しているのである。

 

(3)危機感

最後に渡航理由第3の危機感である。

北一輝は中国現地にあって、次のように実感しているかのようである。

革命党に対して、日本の対中国策も一変しなければならない。

革命中国との真の連帯は、対英追随・対露協和の外交政策を撤廃し、

日中共同闘争によって英露帝国主義に対抗できると北は考えた。

北には、中国が仮に西欧諸国によって分割されてしまえば、

即座に列強諸国による日本の植民地化の拠点になるという危惧があった 。

日本は幸運にも、たまたま西欧からの東まわりの距離が地理的に

隔絶していたというだけのことにすぎないのだ。

にもかかわらず、日本が中国の分断に介入しようとするのは、

自己の破滅を自ら招来しようとする背反である。

さらにそのうえ、稚拙そのものの外交によってドイツの怒りをかい、全西欧の民族が融合している

アメリカの排日熱を喚起すれば、黄禍論のような白人の大同団結を呼び込むだろう。

その結果、英独連合海軍による「元寇」のようなものとなるであろうという危機感を

北は抱懐していたのだ 。

このような危機感は中国革命の現地に向かうよう北の決心を促していただろう。

Ⅱ 辛亥革命への関与

ところで、辛亥革命に関しては日中両国とも数多くの先行研究がある。

それ故、ここで登場してくる袁世凱・孫文・宋教仁等については多くの解釈・分析が試行され、

論点も豊富である。

にもかかわらず、北一輝の辛亥革命に関わる資料はそれほど多くない。

特に、北の辛亥革命への関与が窺える文献は数少ない。

まず彼自身の著作である『支那革命外史』と、『内田良平関係文書』に

納められている「辛亥革命に関する来電」(1911年10月~1912年3月)があげられる。

後者の資料はもともと内田治氏所蔵で「明治四十五年一月度革命ニ関スル来電」59通と

「上海武昌方面ニ関スル文書」という一綴がある。

これはこの時期の北一輝やその他の人々の報告書簡を筆写したもので、

その表紙には「秘第一、二、三、四合綴、黒龍会岡貞吉筆写分ト照合了」と書いてあるという 。

これらはこの『内田良平関係文書』で整理されたが、

『現代日本記録全集』(筑摩書房)と『東亜先覚志士記伝』の中でも

一部引用・掲載されているのみである。

ABOUTこの記事をかいた人

長年教育の場で、働いてきました。 前半は、日本の小学校で、 後半は日本の高校、日本の大学、 中国とベトナムの大学で日本語教師という風に! 今年2018年6月に日本に帰国しました。