辛亥革命の概要
ここで概観する期間は1911年はじめから1916年6月までである。
その間に中国で生起した主な出来事は、武昌蜂起(1911年10月10日)・
中華民国の成立(1912年1月)・清朝滅亡(1912年2月)・袁世凱への権力委譲(1912年3月)・
国民党の選挙での圧勝(1913年2月)・宋教仁暗殺(1913年3月)・第二革命の敗北(1913年8月)・
対華二十一カ条要求(1915年1月)・第三革命勝利し袁世凱帝制取り消し(1916年3月)・
袁世凱の死去(1916年6月6日)である。
辛亥革命は革命党指導の許で、革命化した清朝配下の新軍が蜂起したことを契機として、
それに呼応するかのように各省が続々と独立していくという経過をとって進行したのであった 。
まず湖北省の省都武昌の地において辛亥革命の烽火があがったのが1911年10月10日のことであった。
その発端は、湖北新軍の決起であった。
当時の軍隊を「新軍」とよんでいたのであるが、もともとこれは、李鴻章の提案で、
義和団事件、日清戦争などの歴史的教訓を生かして、
軍の近代化によって「富国強兵」策の方向を目指したのであるが、
ここ武昌の湖北新軍は漢民族がほとんどだったので、清朝には忠誠心を持たず、
多分に革命同盟会の影響下にあった。故に、清朝を打倒し、舞台に登場してきたのは、
革命党による軍事独裁の政府ではあり得なかった 。
清朝政府が1911年4月11日に幹線鉄路国有令を発布し、
さらに英・米・独・仏四国借款団と粤漢・川漢鉄路借款合同を締結すると、
利権を外国に掌握されるとして、これに反発した四川保路運動とよばれる大衆運動が、
革命同盟会を中心としてエスカレートしていった。この運動に対して清朝政府は弾圧で
対処したが、この弾圧を契機として、哥老会・同盟会を中心として武装蜂起が発生し、
四川省全土で暴動が拡大していった。これが辛亥革命の導火線となった四川保路運動である 。
四川省で運動の中心人物が逮捕され、武漢の新軍内の革命派に弾圧がはじまろうとした矢先に、
革命同盟会の影響をうけた約3千の将兵が武昌で蜂起したのが同年10月10日であった。
やがて湖北軍政府が樹立されると、各省での独立運動に拍車がかかり、
11月末までには11省が独立し、12月末には南京に17省の代表者が、
会し孫文を臨時大総統に推薦して、中華民国が誕生したのが1912年1月1日であった。
この辛亥革命が不徹底な革命に終ってしまうのは、袁世凱の登場のためである。
11省の革命勢力の間には清朝打倒という点では一致していたが、その後の構想がなく、
清朝が任命した袁世凱総理によって利用されていったのである。
そのため封建的官僚や地主制が残存し、革命同盟会も革命を徹底化する指導力を
持ち合わせていなかった。
ところで、辛亥革命は日本の明治維新を範としているが、
日本の維新革命後の急変は近隣諸国に多大な影響を与えた。
日本は欧米近代文明を消化吸収し、「富国強兵」策を取り、日清戦争、日露戦争に勝利し、
不平等条約を改正し、世界5大強国の1つにのし上がった。
このような日本に対して近隣諸国は大いなる期待を抱いた。
朝鮮の開化党、中国の変法派、革命党などは日本の足跡を学び、日本の支援に期待を寄せた。
にもかかわらず、日本は近隣諸国を侵略する方向に転換し、
近隣諸国にとって最大の脅威となる国に変貌していった。
それ故、近隣諸国は、このような日本に抵抗するため欧米列強に
依存せざるを得なくなるのであった。
特に中国の革命運動は日本に対して甚大な期待感を持ち、理想を描いていたが、
日本政府の革命運動に対する理解が欠如しており、その政策も国益尊重一点張りで、
視野狭窄であった。
史料の不足から中国の革命運動と日本の関係の研究は、まだまだ不明な点が多い。
両者の内在的思想と論理的研究もこれからますます必要とされる。
犬養毅・頭山満を始めとする日本の民間志士と中国の革命運動との文化的・思想的・
人間関係の研究も焦眉の急であると思われる。中国の革命運動とそれに関わった
同時代の日本人の相互関係を復元することはなかなか困難な事である。
ここでは、特に北一輝が辛亥革命で関与した北の中国渡航から第三革命までの
一連の中国革命史の流れを略述する。
第一革命の勃発と成就
第一革命のそもそもの発端は、四川省の動乱である。これはなにが原因であるかというと、
鉄道国有化問題である。鉄道国有化が浮上してきたのは、清朝の皇族内閣が
華美虚飾・贅の蕩尽によって財政逼迫化を来たしたからである。
そこで、当時の郵伝部尚書すなわち逓信大臣の盛宣懐が、鉄道を担保にして外国から
借金をしようとした。彼は鉄道国有という美名を振りかざし、各地の鉄道を
中央管理下で統御するつもりであった。これに対して特に反対が強かったのが、
川漢、粤漢の鉄道を所有する四川省と湖南省であった。この地域ではすでに民間資本による
商業主義が浸透していて、いきなり政府に召還されるのには当然ながら、かなり抵抗があった。
盛宣懐の鉄道国有化案はこうして、両地域の民心を動揺させ、
不穏な情勢を醸し出すのに貢献した。
この状況を機敏に察知した宋教仁一派は好機到来と判断し、
革命運動の幅を拡大していったのである。
四川省が動乱の巷に一変したのはいうまでもない。
ついには、清朝の威令の及ばない地域と化したのである。
さらに宋教仁はこの形勢に乗じて、一気に武昌で決起しようと画策したのである。
そして10月10日、戦いの最中に敵将黎元洪を寝返りさせ味方にし、省城を落したのである。
翌日、黎元洪を都督にし、独立宣言をした。
この時、遅れて到着した宋教仁が武昌を中心とする中国全体の共和国宣言を提案したが、
時機尚早との黄興の意見によって、却下された。
しかしながら、中華民国政府という名義で交渉に当る旨を諸外国に通知し、
年号も翌年から中華民国元年と定めたのである 。
この動静に対して北方の清朝の周章狼狽ぶりは想像以上であった。
清朝は直ちに盛宣懐を解任し、袁世凱を起用して対処しようとしたが、
袁はなかなかの策士振りを発揮するのである 。こうして、北京政府の首脳として、
袁世凱は時局収拾に取りかかった。
しかしながら、袁は中国国内における革命情勢を武力制圧では解決不能だと判断し、
逆に清朝を排除し、袁自身が北方の支配者となり、南方の革命党と妥協しながら
天下取りの時機を窺うことを決心したのである。
革命軍との戦い振りでも、したたかな袁の計算が働くのである。
漢陽の戦いでは黄興の軍を打ち破り、袁の勢威を誇示した。
しかし、誤算もあり、南京を失う羽目に陥ったのである。
かくして革命党の勢力も軽視できない情勢になりつつあった。
ついには、宋教仁の筆による中華民国臨時政府組織大綱に基づき、共和政府が、
南京において誕生したのである。それから、黄興を元帥にし、
黎元洪を副元帥という案が浮上したが、宋教仁の野望・策謀だとして喧々囂々の非難がおこり、
また黄興も敗軍の将 だとの自己弁明によってこの提案は撤回されてしまった。
こういう状況下、欧米より、急遽帰国してきた孫文が、
この内紛では中立の立場であるからという理由で、棚から牡丹餅のように、推挙され、
大総統に就任することになったのである 。
武漢蜂起に勲功のあった宋教仁たちが退場し、討満革命に何らも貢献していない
孫文が国柱として推挙されるという矛盾を革命党は抱え込むことになったのである。
孫文は直ちに袁世凱と妥協し 、第一革命の終結点が武漢でも南京でもなく
北京になってしまったのである。
ところで、前述したように、辛亥革命の寸前のことであるが、
清朝は山東都督の野心家袁世凱を首相に任命していた。
袁世凱はすでに北洋軍閥の実権を掌握していたので、この時点で武力と権力双方を
掌中にしたのである 。
清朝にとって致命的とも言える人物袁世凱の実質上の権力掌握であった。
これは、清朝の時局収拾策としての袁世凱内閣の組織化であった 。
こうして、袁と革命党との接点がいずれ浮上し、袁はその機が到来することを察知し、
巧みに自らに引き寄せ誘導しようとしているかのようであった。
ここで奴隷外交ともいうべき英国への追随外交を日本政府は遺憾なく発揮するのである。
すなわち、英国は袁世凱を利用して立憲君主制ということで、南北妥協を図り、
英国の中国における統制権を強めようとした。
日本政府は英国の単独行為に不満を有しながら、袁世凱の組閣と立憲君主制に同意し、
南北妥協をやむを得ないものとした。
これは結局、日本政府が、革命軍を認知し、その政権の存在を承認したものであった。
にもかかわらず、英国は日本政府が立憲君主制に同意すると、今度は共和制を主張し、
立憲君主制を放棄した。またまた日本政府は英国の後塵を拝するかのように、
南北共和制に同意したのである。日本政府はこの時、かすかな抵抗として、
英国の支持する袁世凱への対抗措置として、革命軍と南京の中華民国臨時政府に
一定の支援を付与しようとした。
このような状況下で、孫文と袁世凱は南北妥協の交渉を開始し始めた。
その内容であるが、共和国を作り、清朝を退位させるという点では一致していたが、
南北双方とも、ヘゲモニーを取ろうと、必死であった。
しかしながら、袁世凱の策略によって南方派の孫文は、譲歩するばかりであった。
袁世凱の具体的な策は、政治的・経済的両面において露呈された。
日本が露西亜と結託して、満蒙を虎視眈々と狙っているという噂を殊更流したり、
袁の密使でもあったモリソンが多額の金銭を南方にばら撒き撹乱工作をしたり等、
ありとあらゆる手段を使って、孫文が譲歩せざるを得ない状況を醸成していったのである 。
その結果ついに、清朝退位後、孫文は臨時大総統を辞任し、その改選が実施され、
袁世凱が満場一致で当選し、南京臨時政府が終結し、南北統一の共和国が誕生し、
第一革命が成就したのである。このような一連の南北和議に対して、
犬養毅・頭山満をはじめとする大陸浪人は孫文の袁世凱に対しての妥協と
南北和議に猛反対であった。
内田良平は孫・袁の妥協を阻止するために、葛生能久を上海に送り込み
宋教仁を説得しようとしたが、宋は聞き入れようとしなかった 。
上海に滞在していた犬養毅と頭山満は宮崎滔天・萱野長知・寺尾亨を引きつれて
南京総統府の孫文を訪ね、袁世凱に譲歩することに反対の意を表明した。
特に頭山満は孫文に対して、北伐を徹底化し 、南北妥協をするべきでないと通告した。
この時点での大陸浪人たちの勧告は、たとえ、袁世凱が親英的で、
孫文が袁に政権譲渡することで満蒙と南方における日本の権益拡大が
不可能になるという危惧が彼等にあったとしても、客観的に考慮すれば、
正当であったということになる。
議会開会運動と宋教仁暗殺
孫文と宋教仁の党内闘争の感を呈する、議会制民主主義に対する
それぞれの見方の相違は即、思想信条の違いから発するものであった。
孫文が有徳で立派な賢人が上から政治改革を行うという賢人独裁体制を主張していたのに、
対して宋教仁は議会制民主主義の早期実現を強調していた。選挙戦で複数政党が戦い、
勝利した政党が中心となり、政権政党として内閣を形成し、敗北した政党が野党となり、
チェックしていくという実に現代的な議院内閣制の構想を宋教仁は抱懐していた。
孫文とは大きく異なる政治体制構想だったので、喧喧諤諤の党内論争を惹起した。
この孫文と宋教仁の対立は孫文の帰国直後から始まったという 。
孫文の目から見ると、宋教仁はあまりにも性急であるように映ったのである。
孫文は三民主義で有名であるが、辛亥革命前は特に、民主主義達成のための方法論として、
「三序」構想を抱いていた。「三序」とは憲法に基づく議会制民主政体を実現するための
三つの発展段階であり、その順序を提示している。
事を急いては、その達成が危殆に瀕するということである。
まず革命後は軍事独裁体制にはじまり、革命独裁を経て賢人独裁から、
徐々に地方から変革していき、民主体制に至るという構想を孫文は把持していたのである。
孫文は中国における知識人層と同じく愚民観なる考えが根底にあった。
人民が政治的能力を高め、まず地方から政治的に熟成してはじめて普通選挙権を付与できる。
それまでは賢人独裁でいくのだということに固執していた。
これにチャレンジしたのが宋教仁だったのである。
宋教仁はその類稀なる手腕を発揮し、中国を革命直後の議会政党政治への道へと
導いていったのである 。
実に早急な民主化であったため各方面に齟齬を来たすことにもなった。
そのゆえかどうか、自らを死地へと導くかのように、1913年3月20日、
上海駅頭において袁世凱の差し向けた刺客によって暗殺されたのである。
この頃の宋は袁世凱の最大の脅威であった。
それは、孫文が日本に亡命した後、宋は国民党を果敢に組織し2月の総選挙に大勝し、
国民党の実権を事実上掌握したからであった 。
第二革命の勃発と失敗
宋教仁暗殺事件(大正2年3月20日)が発生した時、孫文は訪日中であった。
そこで孫文は上海へと向かい、精力的に活動を開始し始めた。
とにかく国民党が第一党の地位を占めていたので 、4月に国会を召集して、
袁世凱批判を繰り広げようと試みたが、袁世凱は国会を軽視し、独断で借款を締結し、
北洋軍閥を充分に整備し、国民党員を政府の要職から追放し、袁世凱配下の者で固めたのである。
その勢威をほしいままにした袁世凱は、革命派に対して圧迫の手を弛めなかった。
多くの密偵を使い、革命党の機密を掌握した。
こうして、袁は各地の枢要な地位から敵対する革命派を追い落としていったのであるが、
最後の抵抗の姿勢を示したのが、李烈釣、胡漢民、柏文蔚であった。
彼等は、討袁革命として旗揚げをしたのであるが、致命的なことに、日本からの来援もなく、
中国国内においてもこれに呼応するものが微弱であった。
一方の袁世凱は六国財団の借款 を獲得し、軍資金が豊富であったため、
容易に革命派の拠点である南京を陥落した。こうして第二革命は失敗に終わったのである 。
この時孫文は台湾に逃れていった 。
台湾を経由して、孫文は神戸へと向うのであるが、その船中で萱野長知に打電した。
萱野長知は即座に犬養・頭山に報告したが、両人は孫文のために日本亡命が可能なように、
時の政権山本権兵衛内閣に働きかけた。
日本政府としては、袁世凱政権と良好な関係にあったので、
今や孫文は要らざる迷惑な存在でしかなかった。
そこで、山本権兵衛内閣は孫文上陸不許可の方針を決定していた。
にもかかわらず、犬養は孫文を密入国させ、ついには山本権兵衛を強引に説得し、
孫文の日本滞在を承認させたのである 。
第三革命
第二革命失敗後、革命派の主要人物は海外に亡命していった。
日本政府は孫文が来日した時、第三革命の準備に対して支援しようとしなかった。
にもかかわらず、孫文と革命党を二十一箇条要求のカードとして利用しようとした。
この時期の孫文の立場は日本政府には過小評価されていた。
それは、袁世凱が南北を完全に統制し、政権基盤を固め、
孫文がそれを奪還する可能性が微弱だと日本政府は判断していたのである。
にもかかわらず、孫文は日本を第三革命準備の拠点と考え、
今回は日本に2年9ヶ月間という長い間滞在することになった。
この間、1914年7月に第一次世界大戦が勃発した。
英国を中心としたヨーロッパ列強は大戦の渦中にあって袁政権を支援する余裕がなかった。
孫文・陳其美は革命の旗を挙げる好機到来と判断して、準備を開始した。
孫文は頭山満を訪問し、頭山を通じて日本政府の支援を期待したが、
頭山満もこれに協力する姿勢を示した。さらに犬養毅・板垣退助にも懇願し、
日本政府の外交・経済・軍事的援助を仰ごうとした。
また孫文は日本に滞在する革命党員300余名を帰国させ、革命を鼓吹・蜂起させようとした。
犬養・頭山・板垣らは、孫文の革命活動に支持あるいは同情心を抱いていたが、
日本政府は逆に日本における孫文の革命活動に圧力をかけていた。
このように日本政府が革命運動に圧力をかける理由として、
英国の意向が大きく働いている。つまり、今次大戦のどさくさにまぎれて
日本が中国侵略を行い、中国において日本の権益が拡大することを英国は畏怖したのである。
日本のドイツ宣戦布告の交換条件として、親英的袁世凱政権打倒を目指す
中国革命運動弾圧を英国は日本に要求したのである。
それ故、日本政府は革命運動を支援するのではなく、抑圧する方向に傾いていった。
しかし、民間有志と退役軍人の一部の人々は革命運動に対して、支援の姿勢を崩さなかった。
日本政府はこの第一次世界大戦を大正時代の天佑として捉え、ついに膠州湾を占領し、
さらには袁世凱政権に対して二十一箇条要求を1915(大正4)年1月18日に
突きつけたのである。
これに対して中国各地で反対運動が巻き起こり、日本国内でも中国人留学生による
猛烈な反対運動が惹起した。
李大釗は当時早稲田の学生であったが、反対運動の中心となり、
侵略的二十一箇条要求の内容を暴露し、中国人が決起することを激越に主張した。
一方中華革命党は二十一箇条要求の内容を逐一暴露すると同時に、袁世凱の策略をも指摘した。
つまり袁が皇帝になるために、この二十一箇条を交渉の切札として活用していると激しく批判し、
反対運動の矛先をこの売国奴袁世凱に転換すべきだと主張した。
中華革命党の陳其美の秘書黄実は、日本政府の大隈内閣は袁世凱と親密であり、
また日本の元老連も帝制復活が日本にとって有益であるので、
皇帝たらんとする袁世凱を統御するために二十一箇条要求を日本政府が突きつけたのだと暴露し、
革命を実施することによって袁世凱政権を打破する以外
中国の生きる道はないとまで強く主張した 。
孫文はこの二十一箇条要求に対して公式的見解は避けながら、袁世凱が秘密裏に事を進め、
二十一箇条交渉を進んで願い出て、日本側から相当の報酬を引き出そうとしたのであると
指摘した。
すなわち袁世凱は皇帝になるべく日本政府に認知してもらうために、交渉に臨んだのである。
このような袁世凱の売国的行為をまず糾弾しなければならないと孫文は主張し、
反日運動を反袁運動に切り換え、討袁革命を遂行すべきだと強調したのである。
このような一連の情勢を見て、日本政府は二十一箇条要求の目的を遂げるために
袁世凱に対する交渉の切札として、この反袁運動を利用しようとした。
1913年8月末日以来、孫文は日本政府に対して、革命運動の支援要請を再三再四願い出たが、
日本政府は1915年末になるまでは、それにこたえようとはしなかった。
1916(大正5)年4月27日とうとう革命の時期が到来したということで、孫文は中国に帰国した。
在日2年9ヶ月間の第三革命準備の努力が今まさに報われようとしつつあった。
中国の国内情勢が変化しつつあった。袁世凱は二十一箇条要求を受け入れた後、
共和制を廃止して帝制を取り入れ、1916年12月12日に自ら皇帝となったのである 。
すなわち袁世凱の新王朝を建立し、1916年を洪憲元年とした。
このような事態の急変によって、反袁運動が帝制反対の護国戦争に転換し、
その中心人物として、改良派の梁啓超・進歩党の蔡鍔・西南軍閥の唐継尭らが
浮上してきたのである。
1916年12月25日に討袁のために挙兵して、雲南省独立を宣したのである 。
さらに、彼等は四川・広西・貴州に進出し、南方の各省が次々に独立していく契機となった。
袁世凱麾下の馮国璋・張勲らの軍閥でさえもが、袁世凱に対して
帝制取り消しを勧告する有様であった。
日本政府及びヨーロッパ列強もこの新事態によって、袁世凱支持の方向転換を考え、
ついには、帝制延期を勧告するまでになった。
このような状況に窮した袁世凱は、1917年3月20日に帝制を取りやめ、事態収拾に取りかかったが、
このことがかえって反袁運動の勢いを煽ることになった。