内田良平との比較

 

目次
はじめに
第1節 内田良平と日露戦争
1-1 ロシア単独踏破
1-2 露西亜亡国論
1-3 日露開戦論
1-4 北一輝との比較(北一輝と日露戦争)
第2節 内田良平と中国革命党
2-1 中国革命運動準備
2-2 孫文と中国革命同盟会
第3節 内田良平と武昌起義
3-1 武昌起義
3-2 中国革命運動本格的援助開始
第4節 内田良平と南北和議
4-1 袁世凱の日本への対応
4-2 南北和議阻止に向けて
4-3 北一輝との比較(北一輝と辛亥革命)
第5節 内田良平と対華二十一カ条要求
5-1 対華二十一カ条要求
5-2 北一輝との比較(北一輝と対華二十一カ条要求)
第6節 内田良平と満蒙独立運動
6-1 内田良平と川島浪速
6-2 北一輝との比較(北一輝と満蒙独立運動)
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はじめに

本章の目的は北一輝の政治思想を内田良平のそれと比較することによって、

北に対する従来の評価を一変することにある。いかに北が彼を取り巻く周囲の状況を

北の指向する方向へ軌道修正しようと努力したかを浮き彫りにしたい。

そのためには、当時在野にありながら最も影響力を行使した1人である内田良平の言行を

追跡し、北と引き比べることによって、明確化する。

辛亥革命を語るのに内田良平を抜きにして語ることはできない。

北一輝も彼の援助のもとで、中国渡航が可能になったと言っても過言ではないと思われる。

にもかかわらず北一輝と内田との関係は、いつとはなしに齟齬を来し、

その政治思想の位相に断層を招来するのである。いずれも真摯に自らの理想に向けて

自己の軌道を邁進していった。

彼等を基点として様々な人間模様が織り成されるのである。

舞台はまさに激動する支那大陸の渦中においてである。

内田良平に関しては固定したイメージが強烈である。

その黒竜会という組織とともに。右翼の巨頭、超国家主義者、大アジア主義者等あまりに、

インパクトが強い。

内田良平の思想と行動を分析することによって、対外的な面においての

アジア主義というものが明確化されると思う。

内田良平の先行研究としては、滝沢誠『評伝 内田良平』、初瀬龍平『伝統的右翼 内田良平の

研究』、西尾陽太郎解説『硬石五拾年譜 内田良平自伝』等があげられる。

また、アジア主義に関しては、竹内好『日本とアジア』、趙軍『大アジア主義と中国』がある。

ここで簡単に内田良平の略歴を追ってみる。

彼は明治7年2月11日筑前国福岡大円寺町に内田良五郎の第三子として出生する。

佐賀の乱の勃発した時で、良五郎は鎮撫隊の編成に尽力していたため、

叔父の平岡浩太郎によって良助と命名された。

後年、甲と改名し、さらに良平と名乗った。

明治10年内田が4歳の時、西南の役が起こって、良五郎も平岡浩太郎も薩軍に荷担して、

辛酸を舐めた。

明治15年内田9歳の時、一家離散の憂き目に遭遇した。

その後14歳で大病を患うも、15歳で平岡浩太郎のもとに預けられ、

文武の修行に励んだ。

明治27年21歳で、朝鮮の東学党の乱に馳せ参じ、天佑侠を組織する。

翌明治28年22歳の時、日清戦争の大勝利にもかかわらず、

三国干渉によって遼東半島を還付するという国辱を自らの如く憤慨し、

特にロシアに対して復讐の念に燃えた。それでシベリア渡航を決心し、

ロシアの内情を探索しようと思い立った。

明治34年28歳で、黒龍会を創立した。

9月に発行した『露西亜亡国論』が発行禁止となる。

紆余曲折を経て、亡国を削除し、『露西亜論』と名を変更して、発行した。

明治37年31歳の時、いよいよ日露の開戦となる。

明治37年孫文が、来日したが、先に黄興、宋教仁も日本に亡命していた。

そして孫文は支那留学生に革命思想を吹きこんでいた。

宮崎滔天が内田と図り、孫文と黄興を提携させる画策をするのが、この時点である。

第1回の協議会を内田の自宅で開催した所、百余名参集し、大盛況のうちに終った。

明治39年内田33歳の時、伊藤博文統監韓国赴任の一行に参加する。

韓国において一進会の顧問となる。

明治40年34歳の時、杉山茂丸宛てに、韓国の実状を報告し、

諸元老に韓国について知悉させ、日韓連邦を速く達成すべきことを進言した。

以上略歴を鳥瞰すると、中国との関わりは、彼の関心の一部であることが、見えてくる。

シベリア横断計画といい、韓国で一進会顧問になったりと、活躍の舞台が広範囲に渡っている。

中国革命党とのつながりとか中国革命への内田良平の関与のしかた等を

研究することによって、中国革命の実像がより鮮明になってくるものと思われる。

1911年の武昌起義は日本にとっても青天の霹靂であった。

内田は中国革命には大いに共鳴し、早速新聞に投稿したりしている。

実はこの前段として、明治29年、宮崎滔天の紹介ではじめて孫文に顔を合わせ、

意気投合しているのである。

孫文は自身の経歴を内田に語り、叔父平岡浩太郎に世話になっていることを話した。

孫文は中国では革命が不可欠である所以を述べ、日本の有志が援助してくれることを期待した。

これに対して内田は中国革命が必要なのは理解できるが、

日露開戦という先決問題があると主張した。

つまり「先決問題とは日露の開戦にして、日露戦はざれば露国東侵の勢力を挫く能はず。

露国東侵の勢力を挫かざれば革命の変乱に乗じ支那領土を侵略する恐あり。

殷鑑遠からず日清戦争の結果に見よ。遡って英仏連合軍の北京を陥るや露国は烏蘇里一帯の地を

割譲せしめしに非らずや」と。

孫文の返答は「支那革命にして成功するあらんか露国の侵地を回復するは容易の事にして

憂ふるに足らず。況んや日支提携するに於てをや」。

内田は深く孫文の意気に感じ約束して言うには

「支那革命の挙にして日露戦争より先んじて起ることあらんか、

僕は対露計画を中止して君を援助することとせん。

其の時機到来する迄は各志す所に従事すべし」と。

孫文は大いに喜んでこの後連日のように内田の許を訪ねたという 。

このことによって、内田の念頭の大きな部分をロシア問題が占めていたが、

孫文との邂逅によって、中国革命への関心がぐっと重きをなしてきたことがよく理解できる。

この当時孫文は内田の叔父である平岡浩太郎に資金援助を受けていた。

その関係もあり、孫文は甥である内田にも会って、

中国革命に対する理解を深めてもらおうとの思いがあった。

この会見で孫文は内田に満州の件を切り出している。

すなわち革命成就の暁には日本が援助してくれれば、

その見返りとして配慮するようなことを述べた形跡がある。

一旦緩急あれば、馳せ参じる気持ちが強まったものと推量される。

こうして武昌のニュースを聞くやいなや、迅速な内田の対応が了解し得るのである。

前述したように、内田は武昌蜂起の後すぐに、黒竜会時事月函記者であった北一輝を

華中に派遣したり、清藤幸七郎、葛生能久と立て続けに派遣し、彼等に情報収集を申し付けた。

其の他北京、漢口などからは、黒竜会会員から情報が送られてきた。

さらに、論文投稿だけでなく、早速頭山満、宮崎滔天等二百余名でもって「浪人会」を

召集したり、さらに小川平吉と一緒に発議し、頭山満、犬養毅、宮崎滔天らと「有隣会」を

組織して、大陸浪人を糾合し、支那革命運動を積極的に援助しようとした。

一方山県有朋や桂太郎などの元老、軍部は支那革命は日本の天皇制に害ありと判断し、

革命に対して干渉、妨害を試みようとしていた。

北一輝の『支那革命外史』で述べている所は実に興味深い。

すなわち、内田からの電報によって北は戦慄するほどの警告を発信せざるを得なかった。

「即ち長州元老等の発意なるべき満清皇室を存続せしめ、立憲君主政を樹てゝ妥協すべしとの

勧告是れなり。」

これは隣国に共和政が出現することは日本の帝政に害があるとする元老等の真意である。

このような元老たちの勧告を破砕するために内田良平に期待しているのは山県や桂諸公への

説得であった。

内田には過去に実績があるのを北は指摘している。

つまり、内田が「朝鮮及び支那の秘密結社に通暁せりとの信用は、

武漢勃発と同時に杉山茂丸氏等と共に桂を動かし山県を動かし以て伊集院公使の残虐なる

提案 - 独逸の為せし如く武漢を鎮圧して満州の屑々たる諸懸案解決の好意を買ふべしとする

打算的無道 - を破砕して革命の萌芽を蹂躪せんとする過失を一髪の間に

阻止したるものなり。」

これが宋教仁をはじめとする革命党が深く感謝した点であり、

内田の大いなる勲功であると北は評価している。

にもかかわらず今回内田が元老たちの妥協勧告の取次ぎをしようとしているのは理解できないと

北は強調している。

この件に関して宋教仁の衝撃は大きかったようである。

北は彼の様子を次のように表現している。

「不肖は宋君の面色見る見る土の如くなるを見たり。

南京の埠頭に於て敵兵監視の間を声色自若たりし彼は、

不肖が彼の名を以て同君等及び各方面に打電せし写を披見するに其手の打慄ふを知らざりき。

彼は漸く冷静に復し瞑目久うして曰く万事を放擲して日本に行かんと。 」

このような宋教仁の反応を見ての、内田良平に対する北一輝の元老等を説得して、

支那革命援助体制を確立してくれとの痛切な思いが伝わってくる。

内田もこの北一輝の心情が通じたかのように、軍首脳の考えを転換させる方向へ

動き始めたのである。

内田は杉山茂丸を伴って山県を説得するために何度も面談した。

また陸軍の重鎮である寺内正毅をも説得しようと朝鮮にまで渡っている。

この辛亥革命への内田の関わりは非常に目立っていた。

これが果たして本心からでたかどうかはともかくとして。

中国問題に関してはやはり、日本における薩長同盟を彷彿させる孫文と黄興との握手を

宮崎滔天とともに、為さしめたことである。

この辺のことを北一輝も高く評価し、『支那革命外史』で次のように述べている。

「明治38年内田良平宮崎滔天二君等の斡旋によりて所謂広東派と湖南派の合同となりて

『中国同盟会』なる秘密結社は東京に成立したり。

10年前の微力少数にして半覚醒なりし当時に於いて二省は革命の先達として恰も

維新前の薩摩と長州にも比すべし。

薩長の反目が倒幕を挫折せしめ其の握手が維新の中堅たりしに視るも、

孫党と黄系との合同を策せる二君の功績は後の民国史を編すべき隣国史家の

閑却すべからざる所なり。 」

革命の源基となったこの会合をもっと評価すべきとの北一輝の主張は

当然首肯せざるを得ないものである。

内田良平の支那革命の支援の動機としては、やはりロシア問題が念頭にあり、

支那の革命を好機としてロシアが中国東北地方へ侵略してくるという危惧があった。

また内田は支那革命成功の暁には、満州とシベリアを確保できるという打算もあった。

このような内田良平に対して、ナショナリズムの成長・発展した支那革命派は徐々に

敵対の方向へと転換していくのであった。

それは、内田が中心となって推進したと思われる韓国併合である。

革命派はいずれは中国も韓国のようになっていくのではという危惧を直感した。

このことが遠因となり、援助者として内田を見ていたのを軌道修正していったのであった。

北一輝も1912年(明治45年)前半を境目にして内田と袂を分っていくのである。

もともと内田と北一輝とでは、中国ナショナリズムに対する評価が相違していた。

当時の北一輝は生活が困窮しており、内田の食客としての自己に

甘んじていなければならなかった。

にもかかわらず、中国では北一輝は割と思うままに行動していたようである。

時によっては、内田に苦言も呈しているのである。

以後内田は外務省政務局長暗殺事件に関わったり、強硬論を公表したりしながら

自己の主義主張を表明していった。

そういう時に第一次大戦が起こる。

内田はこれを絶妙の好機会と把握し、対支問題を一気に解決しようと思い立ち、

1914年10月に「対支問題解決意見」を時の政治家・有力者等に配布した。

第1節 内田良平と日露戦争

1-1 ロシア単独踏破

日清戦争の戦勝にもかかわらず、ロシアを中心としてフランス・ドイツによる

三国干渉によって日本は遼東半島を返還するという羽目になった。

この時の内田良平の悲憤慷慨は大変なものがあった。

特にロシアに対する復讐の念にかられて敵情視察のつもりで、ロシア単独踏査したことは、

内田の思想形成の上で多大な寄与をしていると思われるので、

彼の足跡を辿ることは意義深いと思われる。

明治30年8月から明治31年6月の約1年間に渡って、

内田良平はシベリア横断を敢行したのである。

経路は浦塩からバイカル湖を経てイルクーツク、ペテルスブルグ、ストレーチェンスクから

浦塩に至るものであった。

内田が初めて浦塩に行くのに同行したのは、陸軍予備曹長の椎葉糺義であった。

長崎から浦塩に向ったのが、明治28年9月上旬であった。

途中内田は柔道でロシア人を打ち負かしたりと数々の武勇伝を残していく。

浦塩では土建業を営む川上賢三宅に下宿して、現地視察を開始した。

川上は表向きは土建業であるが、何らかの形で参謀本部とつながりがあったものと思われる。

当時諜報活動に従事していたものは、写真師、洗濯屋、ペンキ屋、土工、女郎屋、馬賊等に

変装してシベリア各地でその任務に従事していたのである。

川上もそのうちの1人であろう。明石元二郎など参謀本部の華々しい諜報活動とは違って、

彼等は地道にその任務に励んでいたのである。

内田の場合は参謀本部の指令などはなく、前述したように三国干渉に対して義憤を感じ、

自らロシアを研究しようとの意欲に駆られてのものであった。

明治28年の冬になって、川上、椎葉とともに満州への調査旅行を開始した。

芝罘からからジャンクで向ったが、時化に遭遇・難破し、威海衛に漂着し、

それからようやく旅順に辿りついたが、そこは清国の厳重な監視下にあり、

満州に潜入できなかった。それで、内田は一旦福岡へ帰った。

明治29年6月に再度、内田は浦塩へ宮本鉄之助と楠本正徹なる2人の青年を引き連れて旅立った。

このうちの楠本に内田は国境調査を依頼したが、間島など極寒の地の踏査であったので、

楠本は凍傷によって死亡してしまった。

ロシア探索での有力な相棒を亡くした内田は今度は単独で、シベリア横断を決意する。

明治30年の夏、内田が24歳の時、最初は井上雅二と2人で出発した。

途中中野二郎と合流する。ブラゴヴェスチェンスクで井上と別れ、

ネリチンスクで中野と別れ、いよいよ内田にとって単独の横断行となった。

越冬地であるイルクーツクで内田は大変な困難に遭遇するのである。

旅費はもちろん生活費もなくなり、送金依頼の電報代も工面できない状態であった。

とうとう広瀬武夫からもらった短銃まで手放す羽目に陥ったのである。

さらに追い討ちをかけるように熱病にも冒されてしまった。

それから内田は橇を雇って氷雪の荒野であるイルクーツクを出発し西へと向った。

数日後目的地であるニジネヴヂンスクに到着した。

この地点まではモスクワからの鉄道が開通していたので、ここから先は安全だった。

モスクワに到着してからは首都のペテルブルグに足を運び、日本公使館の田野豊を訪問した。

この田野の紹介で、内田は駐露公使林董に面会した。

内田は役人根性丸出しの林とは議論が噛み合わず、自分の思想と根本的に相違しているという

印象を抱き、公使とは2度と会う機会がなかった。

この露都において内田は島川毅三郎、広瀬武夫、駐露海軍武官である八代六郎中佐等と

一緒に露国事情を調査研究することができた。

これら一連の調査研究の結果次のような結論に達した。

①帝政に対するロシア国民の不平は根強く、政府要人はこの不平を逸らす目的で、

対外的経綸を策している。この経綸が失敗すれば、取り返しのつかないことになるだろう。

②革命党が帝政ロシアの転覆をはかろうとしている。

ロシアの満州経綸が日本の妨害に遭遇することは必然で、

この機会に乗じて国民の支持を得て帝政転覆の目的を達成できると考えるだろう。

③ロシアの満州進出は必至のことであり、

対露問題の解決は戦争以外には考えられないだろう。

④ロシアの陸海軍は強大であるが、有力な同盟国がなく、内に「革命の脅威」を抱え、

物心両面で、その戦力が減殺される。

一旦壊滅的打撃を与えれば、ロシア国内で反戦思想が台頭してくるだろう。

⑤極東戦線でのロシアの戦力は数字であらわされたものより、かなり低く、

日本の戦力はそれと反対に増大する。

必ず日本が主導権をとり、開戦のタイミングをはずさないのが緊要なことだろう。

内田はこうした結論に達すると一刻の猶予もできないかのように帰国の旅支度を始めた 。

 

1-2 露西亜亡国論

明治34年(1901年)、黒龍会結成の年にこの『露西亜亡国論』が刊行された。

この著作は発禁処分になりかけたが、タイトルを『露西亜論』と書きかえることによって、

発刊となった。

その内容であるが、①露西亜帝国の根底である農商工業、航運業、制度、国民の智徳、

経営を論じ、②露西亜帝国の運命を遠謀している。

また③日露海陸軍の実力比較は圧巻である。

①露西亜帝国の根底

(農商工業)

ロシアは本来農産国である。

農奴制度のもとで、長期にわたり、ロシアの農民は呻吟してきた。

1861年2月19日の改革によって農奴制は廃止された。2300万の農奴は自由になったが、

この自由は貴族からの自由であって、国家に対しての自由を勝ち得たわけではなかった。

農民は法律によって土地の束縛から解放されなかった。かつては貴族の奴隷であったのが、

今や土地に対する奴隷に転換しただけのことであった。

商工業に関しては、初歩的発達段階にある。

ロシア人自身が経営する商工業はあまり多くない。

有名なウラル山や南露の鉄鋼、石油業の多くは英、仏、独の資本と人力によるものである。

偉大な事業は、これらの異邦人によって買収され、民族資本がその跡を絶っている。

換言すれば、ロシアは商業に関しては未開の地と同様である。

輸出品である原材料が豊潤であるので、かろうじて立国の状態にある。

(航運業)

外国貿易を拡張するためには、航運業を盛んにしなければならない。

にもかかわらず、ロシアの通商権は不振であり、貿易範囲が極めて狭い。

欧亜に版図が広大に跨りながら、単に沿岸貿易を経営しているに過ぎないのである。

従来ロシアは陸地経略に専心した結果、海上経略が粗略になり、

欧亜間の要害は悉くアングロサクソンが占領してしまい、

それで欧亜間の航路はすべて他国の権力区域を通過しなければならなくなった。

(内政)

ロシアの皇室は人民にとって、敵であった。無限専制のもとで、

ツアーは盛んに国民を殺戮してきた。

それ故、人民にとっては、皇室は無用の長物であり、革命は必然的である。

皇帝の批准を要するものが、広範囲に渡っている。

すなわち、立法、軍備から行政、司法に至るまで、さらに大臣、官吏、貴族、僧侶の任免賞罰、

あるいは人民の生命財産に関することまで一切合財の事務をこなしていかなければならない。

しかしながらその実体はこれを執行する多数の官吏の掌中に実権がある。

彼らは連合して一種の階級を組織している。

こうして官吏専制の悪弊が、まづ賄賂によって現出する。

本国の政治もその属領、占領地の政治もすべて賄賂無しには考えられないのである。

賄賂によって殺人を犯したり、盗んだり、関税を免除されたり、

不法をごり押ししたりできるが、賄賂がなければ、理も不理になり、無罪も罪となり、

権利も主張できないし、事業も起こせない、一切のことが悉く不利となってしまう。

ことほどさように、官吏にとっては、賄賂は第2種の俸給である。

この賄賂の弊害はロシアの事業界に悪影響を及ぼし、その生産力が麻痺してしまうのである。

こうして公徳心を失った官吏は、良心が麻痺し、政治百般のことが賄賂の多少によって

決定されるのである。

事業家、商人等すべての者が賄賂によって僥倖を獲得しようとして、

本来の事業、商売などの目的を達成することに努力を傾注せずに、

目的達成に便利な手段の一方に加担するのである。

このような風潮は人心を軽薄にして、事業の根底を危殆に貶めるものである。

ロシア社会の情勢や一般の傾向がすべてこのようであるので、官吏はますます賄賂を取り、

その権勢がさらに増大していくのである。

賄賂横行の弊害は本国の風紀人情を害していくだけに留まらず、

シベリア地方に於て事業の頓挫を招来し、新地開拓の目的を阻喪させたものが多い。

たとえば、請負とか売込み等については贈賄者が官吏と結託共謀し、

保護することで他の競争者を入れなかったり、関税については商人個々の賄賂次第で

輸入税率の高下がある。さらに淫売業者、淫売宿に至るまで賄賂に応じて保護の程度が異なる。

あらゆる事業が官吏の収賄に関係している。これら一連の賄賂の悪弊は篤実な

内外商人に対して、安心して資本を投下する気持ちを萎えさせ、ただ無鉄砲な投機師だけを

招来し、安定した基盤を有する商工業を根付かせることができないのである。

(外政)

ロシアの外交は外交というよりもむしろ侵略である。

ただし欧州に対しては外交があり、アジアに対してはすべて侵略と言っても過言ではない。

ロシアの侵略は勢いのみであって少しも恐れることはない。

これを例えれば水のようなものである。水は低きに流れるので、欧州に対しては、

強大で知恵があるので、流れることはできない。それで方向転換し、東方に流れようとする。

まずトルコに氾濫しようとしたが列国によって阻止された。さらに中央アジアに奔流した。

水の性としては、一度は海に入らなければ止まることがない。

それでインド洋に下ろうとしたが、英国の堤防が強固で決壊できなかった。

さらに東に走ってウラジオストックの湾頭に至って志半ば達成できたのである。

ここから中国に目を転じて蒙古、満州を虎視眈々と狙っているのである。

要するにロシアの膨張は抵抗力の少ない奔流しやすい方向に向っていくのである。

それ故、ロシアの侵略は、侵略のための侵略であり恐るべき侵略ではないのである。

(教育)

ロシア人は実学を軽視し、空理空論に走る者が多い。建設ではなく破壊の傾向があり、

「絶対的被圧者」から「絶対的自由者」に激変して、

君主も国家も個人の所有権もなく究極的には虚無的過激説を主張し、実行しようとし、

さらに主権者を暗殺しようとするに至るのである。ロシアの社会文明の程度がいかに

低いものであるかは、その印刷物によって判断できる。

すなわちロシア国内で発刊する日刊新聞はわずか90種に過ぎない。

ロシアはその統治上、教育に比較して宗教に重点を置いている。

それ故信仰と知識を混同し、進歩の阻害を招来している。

こういう状況であるので、あらゆる学校には学科として必ず露文学と形骸的宗教があり、

これ以外の学科はこの2科目の付属物に過ぎないのである。

また国土が広大であるにもかかわらず、高等教育機関が極めて少数である。

これら少数の大学に対してさえロシア政府は好意的ではない。

なぜなら、大学生は人権・自由・幸福の意義を了解し為政者に対して、

その暴虐を非難したり、一揆の首謀者となったり、革命主義の鼓吹者となったり、

極端な人道論の宣教師となり秘密出版し、これを頒布し国民を啓蒙し、煽動していくのである。

これは為政者にとっては由々しき事態である。

それ故政府は大学生鎮圧を長年こととしてきた。

ロシアでは大学を日本のように士を養成する目的ではなく、

国家を装飾するための奢侈物と見なしている。

このような抑制と監督を必要とする大学に対して、ロシア政府は、

その設置に意欲的になるはずがないのである。

学生を鎮圧する手段の1つとして軍隊に編入させたりもするが、

兵士にたいしても学生は極端な自由思想や虚無革命の新主義を吹き込み、

伝播し兵士に破壊心を把持させるのである。

(社会)

ロシアの社会は上流と下流があって、中流というものが存在しない。

上流は不生産的であり、下流は奴隷的である。

中流社会というものが存在しないので、極端と極端の集合体として社会が存在している。

圧政に喘ぐ者はますます喘ぎ、富む者はますます富むということで、社会組織としては、

かなり重症の病弊を呈し、ここに虚無党ができ、社会党が誕生し、

学生、労働者が悲憤慷慨する。これらはすべてロシア社会の必要性から出たものである。

貧者の不平不満が虚無主義を招来し、学生の破壊主義と連携して革命への道程をとるのである。

上流富豪の徒は、華美を極め、贅の限りを尽くし、その行きつく果てに、腐敗堕落に転じ、

淫行に耽り、人倫の道から外れて頽廃していくのである。一方大多数の下流(愚民)は

官吏の圧政に辟易し自暴自棄に陥り、まともな人生行路から外れ、遊惰で酒色の奴隷となり、

風俗紊乱の状況を呈するのである。このようにして、ロシア社会は社会の大勢が

腐敗しているのである。

これに拍車をかけているのが、450万人のユダヤ人である。

彼等は金銭を得るためには、何らの善悪の観念がなく、賄賂によって官吏と結託し、

莫大な資本を投下し、事業の大半を占領している。

詐欺のような手段を用いたり、投機的事業を蔓延させたりする。

その結果、社会の風俗を破壊し、人情を軽薄にさせているのである。

またトルストイやダーウィンの進化説の影響を受け、

人間にも雌雄淘汰の作用があるとして露骨な表現でこの主義を発表し、婦女が強者、

美男のために致されるのは天理によるものとして怪しまない。

これらの著作がロシア人の間では上下を問わず広く愛読され、社会の堕落、

風俗紊乱の状況を呈している。

というのはこれらの議論を曲解妄信した結果、実行に移す結果であろう。

ロシア社会は風俗が紊乱しているだけでなく、犯罪者も数多い。

官吏がよくこれを保護し、犯罪を容易にする傾向がある。

窃盗・詐欺・賭博等は普通一般のことのように見なし、敢えてその犯罪を怪しむことがない。

風紀の乱れ極まれりという感じである。

(鉄道経営)

シベリア鉄道は不自由な交通を完全にして、これまでの交通遮断された暗黒不毛の

社会を開き、文明の光輝を注入させるものである。

この鉄道を利用する諸国の旅客によって、種々の文物などが流入し、

ロシア人を啓発していくだろう。

それで、悪政に身を委ねている愚を悟り、官吏を賎しむ念が招来し、

ますます旅客から幸福・自由・開明の意義を研究しようと努めるだろう。

結局、ロシア政府がこの鉄道工事に邁進するのは自殺行為だろう。

それ故、内田はこの鉄道が一刻も早く開通することを望むのである。

②露西亜帝国の運命

(革命の気運)

ロシアは極端と極端から構成される上下の2つの社会だけがあって、

中の階級が存在しないので、革命論や破壊論を学生が発信するのは当然の理である。

しかし、まだ学生は孤立し天下の声援を得ていない。

社会のすべてが知識面で暗黒状態なので、圧政に対して無頓着であるからである。

前述したように、政府が商工業を奨励し、いつのまにか国民の頭脳に知識・知恵を注入し、

愚民政策を放棄し、また鉄道敷設と航海の保護により交通機関を完成し、文物が流入してくる。

このようにして国民が啓蒙されるのは自然な流れであり、学生の故意的挑発とは異なる。

政府は大学を検束したり、学生を抑制するのは可能であるが、

自然の勢と天下の同情とともに招来するものは防ぎようがない。

国民が自然の教育を受けるのは、学生が大学で研究することよりも感化力が強大である。

智者が決起するのは恐れることはないが、愚者が発奮し、決起すると天下の勢が

その方向へ流動していき、革命もまた可能性が見えてくる。

(太洋的日本の天職)

領土上、政治上、日本のアジアとか日本のロシアとは言えないが、人道上においては、

アジアはまさに日本のアジアであり、ロシアも日本のロシアである。

なぜならば、君子民族は三千年来、人類領土を蚕食せず、

人道によってその生活を経営するものだからである。

ロシア「開道」の目的のために、場合によっては、戦争もまたやむを得ない。

日本は文明の軍によってロシアに大痛撃を与え、

それからロシア国内の四方八方から革命へと人民が決起していくのを期待する。

③日露海陸軍の実力比較

(日露の海軍)

近年、日本で増加しつつある戦闘、巡洋諸艦に対抗してロシアも日本と同様の武力を

備えようとする傾向が顕著である。

ロシアはとにかく日本と交戦できるだけの準備はすでに整った。

日本がロシアと永久に交戦を避けることができないとすれば、

その機会を発見し直ちに開戦すべきである。

今はすべて海路のみであるが、シベリア鉄道が全通し、東清鉄道が完成すれば、

防備と交戦で必要とされる諸材料が陸路によって供給できるようになる。

こうなると日本にとっては不利となる。

今開戦すれば、ロシアにとっての要害は浦汐、旅順のみである。さらに浦汐の位置は、

はるか北方にあり、旅順の防備を完成するには数年かかる。

その他ロシアが戦時に必要な一切のものが、すべて満足に整備されていない。

トン数、武力、地位、便宜等すべての点から考慮して、

今日の日本海軍はロシアの海軍と比較して優位にある。

この時期を失しては悔いを残してしまう。

(日露の陸軍)

ロシアの200万の大軍は東方有事の際に、その用を為すことができるのかというと、

極めて困難である。

ロシアの「欧軍」を東方に輸送するのに海上は危険であるので、

当然シベリア鉄道に頼らざるを得ない。

旅順までの距離を8778露里とし、1時間の平均速力を25露里とすれば、

この距離を疾走する時間は13日間である。

この間の途中で、石炭・水を積んだり、他の汽車を待ち合わしたり、

不意の遅延等を算入し、4日をさらに要すとすれば、実に17日間かかることになる。

それで、1汽車がさらに発車地に引き返し、輸送を始めるのに34日間をみなければならない。

4時間ごとに1列車、1日6回の列車を発するとすれば、

1列車の運搬容量を携帯品も含め500人と仮定すれば、1日につき3000人を輸送できる。

シベリア鉄道の疾走日数と運搬力はこのようなものであるので、

ロシアの軍制は動員という点で極めて不利な状況にある。

1地方の師団を編成するのにも、手続きが煩雑であることも加わって

非常に日数がかかってしまう。

これら諸般の事情も算入すれば、ロシアが東方へ一個師団を「送兵」する

日数は3ヶ月にも及ぶだろう。

またロシアのウラジオストックの海岸防禦については、未だに速射砲の設備がない。

旅順の防禦についてはさらに不完全である。

ロシアの東洋方面には完全な兵器製造所がない。

旅順の兵器修理所には未だに多数の弾丸を供給することができない 。

1-3 日露開戦論

草創期の黒龍会は、頻りにロシア情勢を世間に知らせ、精力的に日露開戦を主張し、

国民への啓蒙をはかった。

対露の論調は主戦論から宥和論まで振幅し、微妙に変化している。

明治36年8月、黒龍会の海外本部(朝鮮釜山)で『対露の危機』を発行して、

ロシアとの開戦に備えた。

黒龍会の草創期には多くのスタッフが文筆に携わり、

この『対露の危機』は権藤成卿の作であると思われる。

権藤成卿は内田良平の校閲を経て数多くの内田良平名儀の文章を書いたと言われている。

また物議を醸した『露西亜亡国論』は吉倉汪聖が実質的に執筆したということが、

今では定説となっている 。

しかしながら、内田良平の体験に基づいた著作であるので、

内田の思想を充分に窺うことはできる。

ロシアは1900(明治33)年7月に義和団蜂起を契機として満州に出兵し、

そのまま軍を駐留させ、東アジアの緊張を惹起した。

内田はこの傍若無人なロシアの進出を批判した論文を

『黒龍会会報』第二号(1901年4月、発禁処分)に掲載し、

過激な対露強硬論である『露西亜亡国論』(発禁処分)を著した。

これは当時の話し合い外交の方針を採ろうとしていた政府の対露交渉とは

真っ向から対立していた。内田はロシア人民に対する共感は把持しつつも、

対露強硬論を主張したのは、危機感だけではなく朝鮮満州シベリアに至る

広大な領土における日本の支配権を樹立することを最重要視していた。

この強硬論も日英同盟締結(1902年1月)に前後する時期に対露和親論に転換したりもした。

これはイギリスの力を背景にした交渉で、強圧的ときには平和的にロシアに対しての要求が

変換したのである。

これはひとえにロシア側の出方に左右された。

日英同盟の圧力をロシア側が感じたせいか、1902年4月に満州還付条約を調印し、

10月8日までに第1期撤兵をロシアは実施したが、1903年4月の第2期撤兵に疑惑が生じると、

黒龍会は再度、対露強硬論に転じ、開戦論を主張し出したのである。

特に内田は頭山満や神鞭知常等にロシアでの体験を踏まえたロシア論及びロシア開戦論を説き、

間接的に政府に働きかけたのである 。

1-4 北一輝との比較

北一輝が日露開戦論者であったことは、通説となっているが、

彼が処女作『国体論及び純正社会主義』の中で主張した純正社会主義の考えと

矛盾しないかというと、北は論理的に説明している。

日露開戦の意義について熱烈に心情を吐露しているのである。

また非開戦論者を取り上げて彼等の主張について論駁している。

非開戦の主なポイントとして、①民力休養を説く者②地図上で広大なロシアを見て、

恐露病となる者③世俗に付和雷同して不景気を説く者

④征清の戦後経営に懲りて「狐疑」する者⑤通を装って外交の余地あるという者

⑥誠者を衒って慎重な態度をという者などがある。

にもかかわらず国論は一定している。

4000万の国民は火蓋が切られることを待望しているのである。

開戦の危機ではなく好機が到来しつつあるのである。

今この時に及んで非開戦を言う者は、自らの頑迷さを悟っていない。

ロシアの蛮行を見、清韓の残酷な運命を思い、4000万人の前途を考えれば、真面目さ、

誠実さが不足しているのではとまで、断定するのである。

北は自身が社会主義者であるが故に帝国主義を捨てることができないと主張する。

帝国主義を主張するのは、社会主義実現の前提であるからだという。

帝国主義を携えて日露開戦を呼号するのは実に社会主義の理想にあるからである。

社会主義者にして帝国主義者ということになれば、帝国主義者は嘲笑するだろうし、

社会主義者は怒り出すだろう。

というのは世界の定論は帝国主義の敵は社会主義であり、

社会主義の敵は帝国主義であるからだ。

左に社会主義を抱いて、右に帝国主義を握る。

これは全く孤独の地に立って両面の敵に対応しなければならない。

貧民の味方をする時、帝国主義者の敵であり、外邦の帝国主義者に敵対する時、

社会主義者の味方をすることはできない。

今まさに「スラヴ蛮族」の帝国主義が4000万の兄弟と清韓5億の同胞の上に圧力となる時、

社会主義者はどうして帝国主義の脚下に蹂躙されようとするのか。

社会主義者である北が日露開戦を呼号するのは、

「スラヴ蛮族」の帝国主義に対する正当防禦である。

いわば富豪の残酷暴戻に対する労働者の応戦と少しも異ならないのである。

どうして世の社会主義者が富豪の帝国主義に対して強硬であって、

外邦の帝国主義に対して服従を強いるのかと北は論じている。

また北は日露開戦は帝国主義者とか社会主義者であるという理由で

可否される類のものではない。

北自身の社会主義とは、社会主義の実現は団結的権力による。

国家によって土地と資本の公有を図る。鉄血によらず筆舌で、弾丸によらず投票で、

生産と分配との平均、すなわち経済的不公平を打破することが、

北の考える社会主義であるという。一言で言えば、

独立した国家の力によって経済的平等を実現することである。

「スラヴ蛮族」の帝国主義は砲火をもって迫ってきている。

社会主義者が全力をあげて守るべき機関と羅針盤はまもなく破壊粉砕されるのではないか。

満韓が併呑される時、帝国の独立が脅威に晒される。

帝国の独立が脅威に晒される時、「スラヴ蛮族」の帝国主義に蹂躙される時である。

何故社会主義者が「スラヴ蛮族」の帝国主義に対して国家を防禦するのを拒否するのか。

社会主義の実現は「スラヴ蛮族」の帝国主義の下で可能なのか。

北の主張する帝国主義は欧米諸国のような植民地帝国主義ではなく、

国家の当然の権利―正義の主張だけである。

外邦の残酷暴戻な帝国主義の侵略から国家の機関と国家の羅針盤を防禦するだけである。

狭隘な国土から溢れ出す国民が外邦の残酷暴戻な帝国主義の脚下に蹂躙されることなく、

国家の正義において、その権利と自由を保護するだけである。

これがどうして社会主義と矛盾するのかと北は主張する。

社会主義は「国民」の正義の主張であり、帝国主義は「国家」の正義の主張である。

経済的諸侯の貪欲な帝国主義は、労働過多と生産過多で国民の正義を蹂躙する。

これは社会主義の敵である所以なのだ。

しかもその経済的諸侯の侵入に対して国家の正義を主張する帝国主義がなければ、

国民の正義を主張する社会主義は夢想に過ぎない。

皇帝や政治家の名利からでた帝国主義は、無益の租税と無益の殺人によって

国民の正義を蹂躙する。これは社会主義の敵である所以なのだ。

しかもその帝国や政治家の侵略に対して国家の正義を主張する帝国主義がなければ、

国民の正義を主張する社会主義は夢想に過ぎない。

日露の開戦は経済的諸侯の貪欲な外侵ではない。

皇帝や政治家の名利からでた外征ではない。

世界併呑の野蛮な夢想に対して、満韓に膨張した国民の正義を、

国家の正義として主張するものである。

国民の正義を主張する社会主義が日露開戦に反対するのはどういうわけか。

今の社会主義者が腐儒学究と誤解されるのは、このことが原因ではないだろうか。

彼等は徒に、欧米社会主義者の口吻を学んで日本国の地位とか脚下の現実を

閑却した人々である。

真にこの不幸な4500万人の生霊を社会主義の光明に導きたいならば、

帝国主義の包囲攻撃の中で独立を失おうとしている粟大の島嶼を忘却すべきではない。

刃に対しては刃で防ぐ外無い。

この帝国主義の包囲攻撃の中で国民の正義を主張する社会主義者はどのようにして、

国家の正義を主張する帝国主義によらずにその理想を実現できるのかと北は強弁する 。

第2節 内田良平と中国革命党

2-1 中国革命運動準備

明治33年台湾在住の孫文から内田良平宛に突然密電が届いた。

それは、革命党が恵州で挙兵し、占領したが、銃器弾薬が不足して、

広東攻略が困難であるので、大倉組が保管しているヒリッピン軍の兵器を急送してくれとの

内容だった。

内田はすぐに原禎(近藤五郎)大尉と密談の結果、原が兵器を送る手筈を整えることになった。

しかしながら肝腎の大倉組には全く兵器が保管されていなかった。

大倉組の返答はヒリッピン軍注文の兵器はすべて布引丸に積み込んであり、

渡し済みになっているとのことだった。

不審に思った原が調査した結果、国民党代議士中村弥六が着服したことが判明した。

中村は大倉組から買い取った兵器弾薬は一部を布引丸に積み込み、

大部分が大倉組に保管してあるということにしていたのである。

さらに大倉組の受領証を偽造し、比島独立軍のポンセ等に提示し大倉組保管を

信じさせていたのであった。原からこの報告を受けた内田は激昂した。

生命を賭して一国の民族独立運動に挺身している人々を見殺しにして金儲けに

狂奔する行為であり、国際的な名誉を傷つける国賊的行為であると内田は断定した。

内田は一刻も早く中村を処分したかったが、叔父の平岡浩太郎が国民党犬養毅とともに、

中村を推挙していたので、平岡に内報して制裁の内諾を取りつける必要があった。

ともかく孫文に対して、輸送できる兵器弾薬が無く、

詳細は後日連絡するという内容の電報を送った。

内田は恵州の動静が気懸かりであったが、案の定、革命軍は敗退し、

恵州を奪還され全滅したのである。

この時台湾にいた孫文は万策尽きて、東京に飛来した。

この恵州義挙では日本人の山田良政が大活躍し、壮絶な死を遂げた。

山田良政は中国革命における最初の日本人犠牲者であった。

内田は山田の死を深く悲しみ、落涙した。

孫文の訪問を受けた内田良平は、関係者立会いのもとで、中村弥六の一件を切り出した。

内田は中村弥六を問責し、相当な処分をするつもりであると述べた。

彼の行為によって、ヒリッピン革命志士の日本に対する信頼を裏切ったし、

布引丸と一緒に犠牲となった林、長野あるいは恵州義挙の山田良政に対して

申し訳が立たないと内田はその心情を吐露した。

いろいろ協議し、宮崎滔天が調査一切を行なうことになってこの会議を終了した。

調査を依頼された宮崎からの連絡が全くなかったので、内田は不審に思っていた。

翌年1月15日早稲田の犬養邸で新年会が開催され、内田良平、宮崎滔天、清藤幸七郎、平山周等が

招待された。

席上内田が中村弥六問題を切り出し、宮崎に問い詰めたが、曖昧な言動を取ったため、

内田は激怒し、手許の皿で宮崎の額を殴りつけた。

宮崎も応戦し取っ組み合いとなり散々な新年会となってしまった。

納得できない内田は自ら直接中村弥六を訪ね、問責した結果、白状したので、

中村弥六の政治生命を絶つために、『万朝報』と『二六新聞』に布引丸事件の真相を伝えた。

両紙とも大々的記事を掲載し、連日中村弥六の国辱的行為を糾弾したので、

大いに世論が喚起され、さらに全国的な新聞もこの事件を詳細に報道したため、

ついに中村弥六は国民党を除名されたのである。

後になって内田は宮崎の不可解な言動を知ることになるが、

それは犬養毅の願いを把持していたためであった。

というのは、犬養ははやくに国際的信用を失墜しかねない中村弥六の

横領問題を知ったのであるが、唯一の野党である清廉、

憂国を標榜する国民党の名誉が国民党代議士中村弥六の行為によって著しく傷つけられるのを

恐れた国民党党首犬養は秘密裏に中村問題に対処してくれることを宮崎に依頼したのであった。

宮崎は当時犬養と師弟的な関係にあったので、やむなく承諾したのだ 。

こうして内田良平の中国革命運動支援は出発点において悔いを残す羽目に陥ったのである。

2-1 孫文と中国革命同盟会

前述したように内田の関心は主にロシアと朝鮮にあったが、

中国の革命運動にも興味を把持し孫文、宋教仁、章炳麟等と接触していた。

1905(明治38)年5月27日、全世界が注視する中で司令長官東郷平八郎の連合艦隊が

ロシアのバルチック艦隊を全滅させたのである。

ヨーロッパ各地に滞在し、各地の留学生に中国革命思想を鼓吹していた孫文は、

この報を聞くやいなや、日本に向かい同年7月15日に横浜に着いた。

これまでの孫文の欧州行脚によって確保した革命の同志はわずか数名に過ぎなかった。

しかし日本のバルチック艦隊撃滅は世界中に衝撃を与え、特に中国人に大影響をもたらした。

それで、横浜に降り立った彼の眼前には中国人留学生百余名でごった返し歓呼の中で

孫文を迎えたのである。ところで、辛亥革命を推進したのは留日学生が中心であった。

これら留日学生の大半は北清事変後、北京朝廷が国政改革のために日本の制度・

文物を学習させようとして派遣した留学生であった。

彼等留日学生は日本が徳川政権を打倒し、維新革命を達成した後、富国強兵策によって

今またロシアを打ち破ろうとする姿を見て、中国本国の満清朝廷を一刻もはやく

打倒しなければならないという結論に達したのである。

こうして留日学生は明治維新の本質を理解し、満清朝廷が徳川政権と二重写しに見え、

打倒すべき対象と見做し、「滅満興漢」というスローガンを案出した。

日露戦争当時、1万2,3千人にものぼっていた留日学生の大半が中国革命に

挺身していったのは、日本の明治維新と日露戦争の勝利が二大要因として

彼等を駆り立てていったものと思われる。

前述したように、1905(明治38)年7月に来日した孫文は、

留日学生の中心的人物である華興会の黄興に初めて遭遇した。

黄興は昨年1904年10月西太后の万寿節の際に長沙城を襲撃し、

湖南のすべての省に革命の義旗を翻らす計画を立てたが、

事前に発覚し失敗したため上海経由で日本に亡命していた。

日本において黄興は宋教仁、長継、胡漢民、汪兆銘、陳其美等の青年革命家と一緒に

留日学生の指導にあたっていた。

西郷隆盛を彷彿させる彼の風格は次第に留日学生や革命家の信頼を受け、

志士たちの中心人物になっていった。

孫文は来日するやいなや、宮崎滔天を訪問し共に大事を託す人物を紹介してくれるよう

依頼した。

折り良く黄興の件を切り出すと、孫文も黄興の風説は聞き及んでおり、

早速会見することになった。宮崎滔天が孫を伴い黄興宅を訪れると、

彼は宋教仁、長継と対談中であった。

黄興は孫文の訪問に感激した。

これが両人の初めての出会いであり、中国革命同盟会誕生の契機となった。

湖南省出身の黄興と広東省出身の孫文とは、気質も違い、革命に対する考え方も必ずしも

一致しなかったが、革命への熱烈な情熱は共通していたので可能な限り互いの

障害を乗り越えて孫文黄興の提携の土台が形成されたのである。

黄興の提案によって富士見楼で孫文の歓迎会を開催することになったが、

当日留学生が殺到し、会場に収容しきれない程であった。

この機会を利用し一気に日本における革命運動組織をつくるための下準備を

内田良平宅で開催することになった。

前回の孫文の歓迎会のことが清朝政府を刺激し、日本政府へ厳重な取締の依頼があったし、

戦時中でもあったので、秘密裏に開催するために内田宅を使うことになった。

1905年7月30日のことであった。各省からの代表委員が参集し、孫文・黄興両派の合同と

各省が一丸となって大同団結をはかるということで一切の下準備を終えたのであった。

1905年8月20日坂本金弥宅(赤坂霊南坂の大倉邸内)に数百名が参集し、

中国革命同盟会の発会式を開催した。

この大会で宣言・会則24ヶ条を議決し、孫文を総裁、黄興を執行部長、

評議員に宋教仁・汪兆銘・長継・胡漢民・李烈釣等を選任した。

孫文の三民主義を綱領にかかげ、「民報」を機関紙とすることに議決した。

この発会式には甘蕭省以外の中国すべての省からの代表者が参集したので、

東京を本部にして、各省に支部を設置し、上海・香港・その他主要な各地に分会を設けたので、

文字通り中国全土に渡る全国レベルの革命組織となった。

この議決された宣言書が発表さるやいなや留日学生のほとんどが同盟会加入の申込みに

殺到した。

さらに中国本国でも宣言書が配布されると各省で加入者が激増し、1年のしないうちに、

たちまち中国各地域で大きな勢力となっていった 。

当時中国に経済的利権を求めた実業界は玄洋社、黒龍会を財政的に援助し

中国革命運動に間接的に荷担した。

一方日本政府は清朝の要請を受けて革命派弾圧の方向に傾いていった。

1907(明治40)年2月に慶親王は孫文追放要求の親書を韓国統監伊藤博文は

東京でうけとったが、統監府嘱託の内田良平に相談した。

内田は孫文を自発的に退去させる形を取り、中国革命派を刺激しないのが日本にとっての

得策ではないかと伊藤に対して答えている。

内田は速やかに、外務省政務局長山座円次郎と交渉し、孫文の再来日を妨害しないという

条件を得、宮崎滔天と一緒に孫文を説得した。

外務省から内田は、退去費用7000円(800万円)を受領し、6000円(700万円)を孫文に渡し、

1000円(100万円)で送別会を開催した。

こうして孫文は3月4日に日本を退去したのである 。

第3節 内田良平と武昌起義

3―1 武昌起義

前述した中国革命同盟会成立後、武昌起義までに至る経緯について、

未だ十分な資料が存在しないことが現状である。

武昌起義までの中国の歴史を遡及すると、まず湖北の近代化運動が開始されたのは、

1889年のことであった。李鴻章につぐ洋務運動の中心人物である張之洞が湖広総督となり、

指揮を振るった。

こうして武漢三鎮は近代工業建設の要となった。

これは同時にこの地域での革命運動を促進する一要因ともなった。

この湖北の革命運動は日本留学生が中心となり、1899年に励志会を組織した。

この組織の中心人物は陸軍士官学校出身の呉禄貞であったが、彼は孫文の興中会にも関係し、

唐才常の自立軍起義の際、孫文の命によって参戦した。

呉禄貞等は会党に呼びかけ彼等を動員したが、張之洞の弾圧により失敗した。

この失敗を教訓として、湖北の革命派は強固な組織作りを果たした。

やがて1904年6月に最初の革命団体である科学補習所がこの地域に誕生したのである。

この科学補習所を組織したのは、宋教仁や新軍の胡英等であった。

当時科挙が廃止されたので、知識階級のうち富裕なものは留学生となり、

資力のないものは新軍に入隊したという。

科学補習所は特に新軍のなかで啓蒙活動をし、組織化していったのである。

この科学補習所は1904年に華興会の起義に関与したことで破壊された。

その後日知会という組織を経て1908年に群治学社ができ、やがてこれが振武学社となって

1911年に、文学社になっていったのである。

群治学社が出来た頃、東京で共進会が出来、支部が漢口でも組織された。

この共進会の幹部である孫武は東京の成城学校出身であり、劉仲文は明治大学、

張振武は早稲田大学出身であった。

武昌起義はこの共進会と文学社が中心となり勃発したのであった。

ところで、前述したように1905年に孫文と黄興が提携して中国革命同盟会が結成された頃は

全国的規模で革命運動が統一発展していき、資金面でも華僑が大いに協力したのであるが、

そのままこの同盟会が直線的に辛亥革命に到達したわけではなかった。

同盟会内部で内紛が絶えず、特に1907年に前述したように孫文が日本政府の勧告により

餞別を受領し素直に日本を退去したことが各派の対立を表面に露呈することになった。

孫文が東京を去ると同盟会は分裂状態となり、東京本部も閑古鳥が鳴く程

閑散としていたという。

同年8月に東京で共進会が結成されたのもこの対立の1つの現われであった。

この共進会は孫文を総理としながらも中国革命同盟会の別働隊として独自の活動をしていた。

この孫文の革命方略というものが、ことごとく失敗しているのも同盟会で彼の信望を

失墜していく要素となった。孫文はほとんど海外で活動していたので、

中国国内に実質的な組織を有せず、国内事情にも疎遠であった。

それで、外国の援助を仰ぎ、華僑に資金面で頼り、会党・新軍に金をばらまき、

彼等を動員して一気に辺境の地である広東・雲南を占領するのが孫文の革命方略であった。

外国が援助すれば領土を割譲してもよいとの約束さえする有様であったので、

同盟会内部での批判が噴出するのは当然のことであったと思われる。

孫文は常に南部に重点を置き、ことごとく失敗していた。

特に1911年4月の広東蜂起は最大規模の同盟会が全力をあげ、15万の大金を投じて、

黄興も決死の覚悟で陣頭指揮を取ったのであるが、予定の動員も蜂起の準備も

十分でなかったので、またもや失敗に終わってしまったのである。

これで、ついに南方に重点を置く革命方略を転換せざるを得なくなった。

ここで浮上してきたのが、今まで孫文一派におさえられてきた宋教仁・陳其美・譚人鳳など

長江流域を地盤とする人々であった。

彼等は1911年6月に同盟会中部総会を結成した。

それから南京・湖北・安徽・湖南に分会が組織され活動が活性化してきた。

こうして武昌起義に直線的に突き進む下地が成立したのである。

武昌起義の頃の新軍内部の革命勢力はどのようなものであったのかというと、

胡北軍兵士1万5千人のうち同盟会党員は約2千人であり、革命に同調するもの4千人、

敵とするもの1千人、その他のものは動揺していた。

それで、新軍を懐柔し動かす目算が立ったものと思われる。

武昌の新軍は袁世凱の軍隊以外では、最新鋭の軍隊という風評があったので、

これが革命党の支配するところになったのは画期的なことであった。

さて武昌起義であるが、同盟会の援助がほとんどなかったので、

資金面の調達に苦労したようである。孫文にも資金を投じるように依頼したが、

間に合わなかった。にもかかわらず、武昌起義は共進会と文学社が合流し、

同盟会中部総会の指導を受け、10月10日夜と11日午前中の戦いうちに武昌を占領し、

3,4日後には漢口・漢陽も占領したのである。

その後湖南も呼応して、1ヶ月後には南方各省ことごとくが清朝に

反旗を翻すことになったという 。

3―2 中国革命運動本格的援助開始

1911年10月10日に武昌起義が勃発すると、内田良平は速やかに山縣有朋・桂太郎等を訪ねて、

武昌起義の意義を説き、すみやかに中国の革命を支持し、

満蒙独立の可能性を模索すべきだと主張したが、山縣は納得しなかったが、

桂は内田の考えに同意した。

やがて宋教仁から電報がきたので、かねてからの約束通り、

北一輝・清藤幸七郎を派遣することにした。

内田自身は東京に残留し、2つの大目的を達成するために各所に働きかけたのである。

その目的とは、まず第1に宋教仁を始めとする革命派が最も憂慮している日本政府の

対中国干渉を放棄させることであり、第2に武昌起義を契機として懸案の満蒙問題を

処理していくことだった。

武昌起義勃発後の日本の世論は革命派に同調していたが、

実際に現実政治を動かす日本政府は中国の革命に懐疑的であり、

特に山縣有朋・松方正義・井上馨等の元老達は隣国に共和政体ができるのは

日本の国体にとって有害であると考え、清朝政権下の君主立憲制が望ましいと思っていた。

それ故、中国の革命派は日本の為政者の動向を深く憂慮していた。

日本の軍事力を以ってすれば、中国の革命派など木っ端微塵となり、

革命の成就など到底あり得ないと彼等は考えていた。

このような頑迷固陋な日本の為政者を牽制するための方策として、

内田は両面作戦を講じたのである。1つは、内田自身が為政者に直接あたって

説得することであり、もう1つは革命支持の世論を喚起することであった。

まず為政者説得工作であるが、内田は杉山茂丸と一緒に山縣を説得し続けた。

内田の懸命な説得にもかかわらず、山縣は最後まで中国革命に反対であり、

革命派を弾圧するよう日本政府に圧力をかけ続けたのである。

にもかかわらず内田はこの一見徒労かと思える山縣に対する説得工作だったが、

さらに種々の方面で説得工作を継続するのである。当時の財界を代表する

三井の益田孝に対しても説得し、北京政府へ一方的に武器を供給することの愚を説く

書面を送った。

益田は内田の熱情にほだされて元老の1人である三井の番頭と称されていた

井上馨に内田の書面を見せたのである。井上は即座に内田の意見に同意し、

西園寺首相を説得する方法を益田に教示さえしたのである。

益田は革命派に同情的な桂太郎と一緒に西園寺を訪ねている。

また益田個人でも足繁く西園寺を訪問し、対中国認識を説き続けたのである。

このように益田がまるで内田にかわるかのように熱意を持って西園寺説得工作を続けた

背景には、内田の意図を了解している大江卓と小美田隆義の益田への圧力が存在していた。

大江・小美田から益田の情報を得た内田は上海の宮崎滔天に対して、

孫文・黄興から西園寺・井上・桂宛に革命派への依頼と協力の電報を送るように指示した。

これも幸いして三井の革命派への武器援助が決定したのであった。

次に世論の喚起であるが、内田は宮崎滔天・小川平吉・萱野長知等と一緒に有隣会を

結成した。

有隣会はこの当時中国の革命支援の機運を最も盛り上げた民間有志団体となった。

少なくとも、革命弾圧派の一部元老や陸軍の動きを牽制する

役割を果たす事ができたと思われる 。

以上見てきたようにこの頃の内田は中国の革命運動に情熱を傾注し本格的に

支援しようという姿勢が窺える。一部に満蒙問題の解決の目途が立つという

打算も把持していたのであるが。満蒙問題については後述する。

第4節 内田良平と南北和議

4-1 袁世凱の日本への対応

日露戦争から清朝末期までの日中関係を概観していかに袁世凱の存在が

日本にとって重要な要素を占めていたかは筆舌に尽くし難い。

袁世凱は内田にとっても日本政府にとっても非常に御し難い人物であったようだ。

彼は明治維新以前の日本に対するイメージすなわち対日侮蔑感を持ち、

中華思想と事大主義の混交した考えの持ち主だったように思われる。

内田はもちろん袁と直接接触する機会を持ち得なかったので、

なおさら彼に対する警戒感は強かったのであろう。

日露戦争中に袁世凱は日本に対して便宜をはかることも多かったが、

満州の地方官憲を通じてロシア軍にも好意を表わしていた。

朝陽に駐屯していた馬玉昆が日本軍に協力する約束だったが、

袁世凱が妨害したという事実もある。また直隷総督の管轄内である蒙古で

日本軍が各地で妨害行動を受けたのも直隷総督である袁世凱の指示であったことは確かである。

日露戦後も袁世凱の日本に対する対応は誠意に欠けていた。

袁は口約束していた事を悉く無視する態度を取ったのである。

明治38年の北京条約から当時の駐支公使であった内田康哉が満州に関する未解決の

問題を解決すべく尽力したが、袁世凱の対応によって阻害された。

次の林権助駐支公使も袁世凱の態度を変換させることはできなかった。

ますます日中間には複雑な係争問題が浮上してくるばかりであった。

そこで小村外相は最後の切札として、伊集院彦吉を駐支公使に起用した。

伊集院は袁世凱と懇意の間柄だったので適任者と見なされていたが、

逆に袁世凱は米国を引き込み日本に圧力をかける工作をした。

それは義和団事件償金免除の謝恩をすべく唐紹儀を米国に派遣し、

奉天駐在のストレート領事と結託して米中接近を画策したのである。

また袁世凱は英国ボーリング会社と工事請負契約を結び日本の満州鉄道経営に

不利益を与えようとしたり、日英間に齟齬を招来させるような

反日工作をとりつづけたのである 。

4-2 南北和議阻止に向けて

明治44年11月18日に革命軍によって上海会議が開催された。

袁世凱はこの会議に唐紹儀を派遣していたが、まるで投降使のように

革命派の条件を提示された。

その内容は、清室朝廷の撤廃・共和政体の採用等4項目から成っていたが、

唯々諾々として北京に帰ってきた唐紹儀に対して袁は強きの発言をしている。

すなわち、国体問題は国民会議で決定すべき重大事項である旨を革命政府に対して

通告したのである。袁がこのような強きの姿勢を把持する背景として、

日英両国公使の後援が期待できる見通しが立ったためである。

またロンドンタイムス特派員のモリソンが袁世凱のために暗躍し始めたこともあった。

明治45年1月1日に革命政府は孫文を臨時大総統に推挙して共和政府の樹立を果たし、

袁世凱と清朝に対して服従を強要する姿勢を示した。

袁世凱は講和問題を今後電報で行いたい旨を革命軍講和代表呉廷芳に連絡した。

以来2月12日の宣統帝退位まで、実に40日以上南北両政府の間に電報が行き交ったのである。

その間英国公使ジョルダンの支援を確実なものにした袁はますます強きの姿勢で

対応してきたのである。

しかしながら革命党刺客による宗社党領袖良弼の暗殺は公武合体的期待を

木っ端微塵に砕いてしまった。

まもなく北洋軍閥の皇帝退位の上奏によって最後の決断を下したのである。

ここにおいて、明治45年2月12日をもって宣統帝退位の上諭が下ったのである。

ここから南北妥協は急速展開をし始めるのである。

2月13日に孫文は南京政府の臨時大総統の職を辞するのである。

明治45年1月下旬に南北妥協によって孫文が身を引き袁世凱を大総統に推すという

情報が内田のもとに寄せられた。

内田は仰天し、革命党のために非常に良くない事態を招来するものと憂慮した。

そこで葛生能久を南京に派遣し宋教仁を説得し、南北妥協を取り下げ、

来日することを勧告するよう指示した。

南京の宋教仁のもとに到着した葛生能久は彼の真意を問うた所、

次のような返答が返ってきた。

つまり、この南北妥協を策するに至ったのは、

袁世凱もこれまで権謀術を駆使して権力を掌中にしてきたのであるが、近年は年もとり、

以前とは人物が変化して、真に中国の行く末を案じ、

世界の大勢を念頭に入れながら強固な国造りをしていかねばならないという点では

宋教仁をはじめとする革命派と同じ考えである。

革命派内部においても、俄仕掛けの軍隊であるので、内紛が絶えず、資金面でも枯渇し、

かえって袁世凱に食糧を支援してもらっている程である。

革命党の勢威もこれ以上は望めないので、ここで、南北妥協し袁世凱に政権を託し

革命の目的を達成することがより良いという結論に達したのである。

袁世凱を大総統にしても議会をつくり、かれの専断をコントロールできる仕掛けを作れば

無茶はできないだろう。

袁世凱も妥協の条件としてこれは了承しているので、議員選挙をできるだけはやく実施し、

革命党が議会で多数を占めることになれば、革命の目的を十分に達成できると、

宋教仁は強調したのである。

これを聞いた葛生能久は南北妥協が阻止できない状況であることを了解し、東京に帰り、

内田と善後策を協議した。

内田は革命党が頭山満・犬養毅にも全く事前に相談することもなく、

妥協工作を進めたことに対して不審の念を持ったが、宋教仁の袁世凱に対する楽観的見方が

将来災いを招来することを直感し、懸念した。

内田は妥協成立前に宋教仁を桂太郎と引き合わせたかったので、2月半ば、

再度葛生能久を渡中させた。

葛生能久が宋教仁を訪ねると、袁の大総統就任式が革命党の首都南京で挙行される日が

近いということだった。

ことここに至っては南北妥協成立前の宋と桂の会見は期待しようもなかった。

内田が宋教仁の来日に最後の望みを持ったのは、宋・桂会談に成功を確信し、

これによって日本の政治的指導力を袁世凱に対する圧力に使い、

中国における革命的建設の間接的な援護と為すと同時に日中両国の相互理解に基づく

満蒙問題の解決をはかることであった 。

4-3 北一輝との比較

北一輝は南北和議を成立せしめたものは、日本及び日本外交にあると断定している。

袁世凱の人物像に関しても過大に評価していない。

すなわち権謀術策を弄した奸雄だとも認めていない。

つまり彼を過大評価するのは、中国民衆を過小評価することでもある。

北は中国軽侮論者と中国崇拝論者は同じ穴の狢だと断定する。

袁世凱を必要以上に過大評価するることは、結局日本人及び日本政府の責任転嫁の類だと

北は思っていたようだ。

日本政府が革命の遂行を妨害するような挙に出ようとしたのが、

長州元老たちの画策する清朝中心の南北調停案であった。

これは前述したように、北が内田宛に飛電し、何とか阻止するような事態に至ったのであるが、

またもや英国本位の外交によって袁世凱の講和斡旋に変形して現出したのである。

この袁世凱を後援しているのが英国のジョルダンと日本の伊集院公使である。

日本国民の声援を受けて渡中している頭山・犬養両氏が革命党の南方政権を支持していても、

上述した日本当局者の対応を見ると、頭山・犬養氏も日本政府の探偵のように

中国民衆から見られるのも当然のことであった。

隣国日本が南北を政争させ、内乱化し、漁夫の利を得ようとしていると彼らには

写ったのである。この際中国民衆は袁だ孫だと論じ合っている場合ではなく、

速やかに国家統一を成就しなければまたもや外国に蹂躙されるという危惧を抱いた。

日本の明治維新においても勝・西郷が江戸城無血入城に合意したのも、

英仏の干渉が起ろうとする情勢を見ての大局的行動であったことを想起すればよい。

目を転じて中国においても、袁世凱に一切を譲与した革命派の統一的な愛国的覚醒も

同様に大局的行動であると北は強調するのである。

日本は「英国の買弁たる袁世凱の為めに己が背に負ひ胸に抱きたる革命党」を弾圧して、

まるで租界の「路傍に立てる印度巡査の如き恥辱なる任務」を遂行するだけで、

何も中国から謝意を期待できるようなことをしていないと北は述べるのである。

武昌起義勃発の報を聞いて伊集院公使をはじめとして日本の官吏のほとんどが、

清朝がまだ安泰であると盲信したように、黎元洪擁立の5日後の10月17日に河南で

袁世凱が慶親王の文書を持参して訪ねて来た陰昌と会見したことを忘却すべきではない。

この時点では革命の勢威は湖北の一部に過ぎなかった。

それで、伊集院氏が清朝を援助して暴動を弾圧するように勧告したことと同様に、

袁は軽率な楽観主義でもって大命を拝受したのである。

しかしながらわずか一週間の間に激変した革命情勢を見て驚愕したのも事実である。

黎元洪と馮国璋が漢口で戦っている間に、袁は「亡国階級」の常として、

敵に媚びを売る行動を取るようになったのである。去就に迷った袁は清朝に対する

排満興漢の大勢に逆行できない恐怖との間に立っていた。

革命派が今や天下の勢威を圧倒しようとした時「亡国階級」の官僚が自分は漢人だと言って

投降の口実としたのと同じように内閣総理の任命を辞退していたのも

1人の「亡国的官僚」に過ぎず、安易な投降を期していたのである。

北は袁世凱を世評のような奸雄の器ではなくむしろ惰弱な1俗吏に過ぎないと見ている。

というのは次のような事実で明らかである。

武昌都督府において黎元洪・宋教仁等の前で袁の密使が

袁は「清室に対する臣節と漢人たる義務」の間で逡巡していると訴えたことである。

それに対して宋教仁等は漢奸となるより明末忠臣の跡を継いで興漢の義士となるよう忠言した。

また漢人で功績のあるものは一律に重用するという保障を革命軍は発していた。

これらの情報に活路を見出した袁世凱は早速11月1日に袁内閣を決定したのである。

もしこの時点で北京朝廷からの召還がなかったら、袁はすべての「亡国的官僚」が為したように

「雷同的投降者」になっていただろう。

これらの事実を見るだけで、袁が「簒奪の遠謀を包蔵して官革両軍を翻弄せし奸雄」であると

言えるのかと北は強調するのである。

袁世凱は11月14日の裕隆太后との謁見で、討伐がいまや不可能になり、

皇家の存続のための革命軍との和議をどのように進めるかを「諮問奉答」したのである。

15日には革命軍によって共和政体採用を勧告されたが、公武合体論にとらわれていた

袁は単純にも、満人の君主のもとで漢人の責任内閣と国会があれば

「国乱」が平定されると妄想したのである。

袁世凱は武昌起義が勃発した頃は、革命が単なる暴動だと思い、

軽率な「征討大臣」であったし、革命が進行しいよいよ北方の守備が危くなると変身して

「講和大臣」になり、北京に入京して太后に謁見した11月半ばには豹変してまるで

革命軍政府派遣の「勧降使」になったのである。

つまり袁は一定の謀略計画を把持していたのではなく、

単に大勢に附随した事大主義者に過ぎないのである。

北はこの事大主義を「亡国階級の通有性」と見なしている。

識見・操守もなく大勢に阿諛追従する卑怯屈従の姿勢であり、

内治外交ともに単に強者の勢力に翻弄されるので国は亡びるのであると北は述べる。

この「亡国階級」の1人である袁の外交が常に事大主義であったことは周知のことである。

にもかかわらず革命の渦中における袁の対革命党対策だけが

事大主義ではなかったというのは、「不肖等の信ずる能はざる論法なり」と北は断定する。

巷間流布された世評のように袁世凱は「主家」を簒奪しようとして講和を計ったのではなく、

「主家」の存続のために降伏を考えた忠臣である。

袁の把持する公武合体論が革命軍政府に問題とされないと見ると、

袁はその事大主義によって英国の保護を求めたのである。

すなわちジョルダン公使にこの清末の1忠臣である袁世凱は清朝保護を「哀求」したのである。

長江各省に日本人と日本資本が侵入することを制御しようと考えていた

ジョルダンにとっては好機である。

また袁世凱は英国を動かせば日本は追随してくると思っていた。

というのは、伊集院公使はジョルダンの従僕のように彼に忠実であったので。

これが英国本位の対中国外交である。

英国とその「附庸国」である日本の後援を期待できると発見した

袁世凱は突如強硬な態度に豹変したのである。

日本のような独立国政府がある1国の頤使のもとに国民の対外活動を裏切った

無恥卑陋な「奴隷的外交」をはじめて日本の外務省に見たと北は慨嘆している。

日本政府と日本国民の外交的乱調によって革命党はまさに孤立無援の叛徒の

集団に転落しようとしている。日本政府が「印度巡査」になろうとする

この1事は革命の進行を最終段階において挫折させた有力な圧迫であった。

英国とその「附庸国」である日本の清帝中心の妥協斡旋がただちに清帝の任命した

降伏大臣袁本位の者に転化するのは当然のことで、孫文政府の崩壊に続いて

統一政府の大総統に袁世凱が浮上してきたのである。

このような革命の結末を招来したことで、在中国英人の日本に対する中傷はひどかったという。

頭山・犬養氏を「日探」だと見た中国人の怒り・恨みも甚大で、

日本に期待した革命的青年は国民に対してその面目を喪失したのである。

結局革命に関与した北を筆頭にして大いなる恥辱を蒙った。

これは本国政府に一個の意志もなく、ひとえにジョルダン公使の命を仰ぎ、

日本は英国の「印度巡査」として頤使されたことによって、革命党と「亡国階級」の両者に

信用を喪失し、英国は日本を頤使しながら誹謗することによって

全中国の「景仰」を受けたのである。

袁世凱が日本を翻弄したのではない。

日中両国が1英公使に駆使・蹂躙されて奴僕のように取扱われただけのことである。

英国の「買弁」に過ぎないこの「国家の競売人」である袁世凱を擁立したことで、

日本は東洋の盟主どころか中国を保全することのできない1弱小国であることを暴露した と

北は慨嘆したのである。

第5節 内田良平と対華二十一カ条要求

5-1 対華二十一カ条要求

1914年10月に内田良平は『対支問題解決意見書』という文書を作成し、

当時の元老、首相等有力な為政者に配布している。

これは、第一次大戦勃発後の世界情勢にいかに対応すべきかと東亜経綸の根底的なものを

明確にした一種の戦略論である。

この文書の中に「国防協約私案」があって、その第二として、

内田は「支那ハ日本ノ南満州及内蒙古ニ於ケル優越権ヲ認メ其統治権ヲ日本ニ委任シ

国防上ノ基礎ヲ確立セシムベキ事」 と述べている。

これは特に内田が辛亥革命以前から胸奥に抱いていた信念の発露に違いない。

当時彼の関心は中国にはあまりなかったが、孫文と会見し領土割譲の口約束を受けてからは、

猛烈に辛亥革命に没頭していったのである。

大正4年1月、加藤外相が日置益駐中国公使を通じて北京政府に対して、

二十一ヵ条要求の新交渉を開始し始めた。

この条項には以前、内田が『対支問題解決意見書』の中で主張したものと

合致するものもあったが、内田が最も重要視する満蒙問題解決と日中軍事同盟確立という

目的はすべて排除されていた。

この内田の「意見書」は日本の満蒙における利権云々ではなくて、

満蒙主権が日本にあるということを国際的に認知させるという戦略に立っていた。

それは内田は清帝退位以降は実質的な満蒙主権が日本にあるという信念を

把持していたからである。

にもかかわらず、この加藤外相の対中国交渉の中には内田のこの満蒙主権に関することが

存在していなかったので仰天した次第である。

前述したように内田はこの満蒙主権が日本にあるということは、

辛亥革命勃発以前から中国革命同盟会が自ら進んで公約したことであると確信していた。

仮にジョルダンと袁世凱の陰謀によって日中両国の革命的志士が

離間されていなかったら実現していた懸案事項であったと内田は主張する。

大隈内閣はこの件に関しては、無視するかのようにわずかばかりの中国における

利権を袁世凱に希い、満蒙の主権は北京にあるということを容認するような

愚劣極まる交渉をしたと内田は解釈した 。

この『対支問題解決意見書』は反響著しく、

後に政府から出てきた「対華二十一カ条要求」に繋がるものと評価されている。

内田は国民外交同盟会の結成にも参画し、民間運動団体等の指導者的存在に位置していた。

1915年に内田が提示した『対支外交善後策』においては大隈内閣の対中国政策を痛烈に

批判し内閣刷新を述べた。

やがて内閣改造が実現すると内田に共鳴する閣僚がでてきたので、

今度は彼は『対支政策意見』を閣僚連に提示し、影響力を行使した。

目を転じて中国の第三革命では討袁革命を支持し、1916年5月下旬から中国に乗り込んでいる 。

5-2 北一輝との比較

北一輝の対華二十一カ条要求の捉え方は、彼の一連の歴史認識から見ないと、

誤解されがちである。

もちろん、為政者とも国家主義者、社会主義者等の把握とは懸隔し、北独特のものがある。

それは、日清戦争、日露戦争、第一次大戦の見方に関して把握できる。

まず、日清戦争であるが、北は「日清戦争は日本が天佑によりて列強の分割より

免かるゝと共に、黄人諸国の盟主たるべき覇位争奪の墺普戦争なり。 」と述べているが、

日中関係をオーストリア・プロシアの関係に例えて述べているのは、興味深いことである。

独逸はビスマルクが、戦勝にもかかわらず、土地の割譲を要求することなく

オーストリアとの同盟を締結したのである。

北は「日清戦争を終はるに当って二国同盟の基礎を築かざりし錯誤」であると批判し、

ビスマルク外交がなぜ伊藤博文や陸奥宗光等の当時の為政者にはできないのかと

慷慨するのである 。

一方、日露戦争では、中国のためにロシアからの侵略を阻止したのである 。

中国も参戦することを希望したが、日本政府が拒絶したために、

中国は茫然傍観するだけであった。

にもかかわらず、北が「日露戦争は支那の深甚なる感謝と陰然たる援助の下に、

日本一国によりて戦はれたりと雖も東洋の独墺は条文無き攻守同盟に握手したり。 」と

述べているように、良好な日中関係の兆しが出てきたのは確かである。

ここで北はロシアから奪った南満州の意義について縷々主張している。

北は「亡びたる満清の失へるものを新たに興らんとする漢民族が主張せんと欲せば

干戈に見ゆることを要す。 」とまで南満州に拘泥していた。

また南満州をロシアから奪った日本の正義は厳然として存するとも主張していた。

にもかかわらず、北は「日本が露西亜より其れを奪ひし時に緊張したる

国家的正義は南満州に占拠すると共に崩然として跡なく」というように、

その領有の意味が大きく相違してきたとみなしている。

すなわち「支那を露西亜の侵略より防護せんが為めの占有にあらずして(略)支那を

脅かさんとする南満州に一変したり。 」と北は断言するのである。

これは、日本政府が日露協約 を締結したことを批判しているのである。

北は一貫して、英国、ロシアを敵と捉えているので、当然の結論である。

北の「日露戦争中の南満州占有は支那保全主義の為めの城壁としてなりき。

日露協約に至りての同一なる其れは露西亜の分割政策に協力し

助勢する所の前営となれり。 」という言葉の意味することは、

日露戦争と日露協約が中国にとっては、全く相容れないものであるとの認識である。

当時の日本の為政者が日露再戦に恐怖して締結した日露協約は中国にとっては

脅威となったのである 。

「彼等は保全主義者の城郭に据えられたる砲門が当然に北方の侵略に向けらるべきを

期待したるに係らず。却って反対に己に向って開かるゝ不信不義に怒らざることを得ず。 」と

北はせっかく中国が日露戦争で親日的になったのに、

日露協約によって中国側から猜疑の目で見られるという結果を招来したと論じているのである。

日本とロシアが提携して中国を瓜分するのではという恐怖が、中国を英国に近づけたのは、

日本の外交的堕落であるとの北の批判は当っている。

さらに不本意ながらこの恐怖心が袁世凱を中心にした南北統一という方向へ

中国の国論を一致させたのである。北は「日本外交の道義的堕落が其の信頼主事する

同盟国の術中に陥りて、終に袁中心の南北講和を来せし所以の実相を理解せよ。 」と

述べているが、英国のモリソン等の煽動によって中国の世論が操作された側面も強調している。

すなわち「当時渦中の人たりし不肖は革命党領袖等の真意を了解し、

又此の愚人島を中傷讒誣して以て其の地歩を回復せる英人及び他の欧人等の言動を

見聞したるものなり。 」と北は当時革命の渦中にいて日本を非難することによって

その野心を遂げようとする欧米を観察していたのである。

この観察眼は頭山満、犬養毅はもちろん日本浪人団にも全く存在せず、

日本政府に抗争して惰弱で不義な日本外交を本来の軌道に引き戻そうとする者がいなかったと

嘆いている 。

彼等浪人団は「只一に袁を垢罵し孫黄譲るべからずとなして、

其行はれざるや終に嘲笑漫罵を革党に加へ憤々として帰国せり。」という。

この日本の言動に対して中国は顰蹙を加え、欧米は哄笑していたという。

北の「あゝ列強環視の前に恥を晒して帰れる愚人島興行団の怨言憤語を聞きて愚人島の朝野は

益々其伝襲的支那軽侮感を深くせり。

魔の導きによりて国歩邪路に迷ひ友邦悉く翻って友たるものなし。 」との論難は

日本の国運の行く末を危惧してのことである。

このように北は日本の前途を憂い、隣国中国の将来を悲しみ、

日本政府に諫言する義人が1人も出てこないと嘆くのである。

それ故、今の日本にとって必要な人物は「一個のビスマークのみ」と北は述べる。

ビスマルクは墺普戦争の戦勝で、オーストリアに対して「一握の土」も要求することなく、

当時強盛を誇ったフランスに戦いを挑み、一気に欧州の覇権を争う程にまで国威を発揚した。

一方、日本の為政者は、隣国中国に対して二十一ヵ条という要求をしたり、

強大な英国と同盟を結び、その走狗に化すという事実はビスマルク外交とは、

実に対照的である。特に中国革命にとって「天佑」であった第一次大戦に参加し、

独逸を敵としたのは、日本外交の大いなる失策であった。

彼等を、北は「諸公は強露を破って心自ら驕り終に下等人種の煽揚を事とする

英の術中に落ちて最も『不名誉なる孤立』に至りしのみ。」と評する。

前述したように、北が日中両国にとって英国と露西亜が最大の敵であると

認識するにもかかわらず、大隈内閣は日英同盟の誼とかつての独逸提唱の

三国干渉の報復という名目で独逸に宣戦布告し、第一次大戦に参戦したのである。

この大戦以降の大隈内閣の外交も含めて、北は保全主義という日本の大義から大きく

軌道を遊離していくものと判断し、必死に為政者に働きかけている。

具体的には大隈総理に意見書を提出したり、譚人鳳を大隈に紹介したりしている。

第1節で述べたが、この頃の日本には1913年の第二革命失敗によって

中国から逃亡してきた多くの中国人がいた。

そのうちの1人が譚人鳳であった 。

このような、北の懸命な努力にもかかわらず、日本外交の最大の汚点とも言うべき

対華二十一カ条要求を大隈内閣は発動したのである。

これは、1915年1月に山東での独逸権益の継承、満州の租借期限延長、

漢冶萍の共同経営等、二十一ヵ条にわたる要求を大総統袁世凱に提出した。

この要求に付随して、日本政府はいくつかの外交的誤策を犯している。

それは、この要求を受け入れたら、日本における中国革命派の運動に

圧力をかけてやるということである 。

北は「投降将軍」とか「英公使の買弁」というように評価する袁世凱政権を当然認めず、

打倒することが念頭にあり、革命政権をあくまでも樹立することが目的であった。

これは北の政治思想から容易に推察できることである。

外相加藤高明が、この袁世凱に対して瑣末な利権を求め、外交的愚策を演じたので、

「日本第一の噴飯すべき外交家」とまで痛罵している。

また、日本政府は英国の走狗となり、中国への経済的支配とも言える民国の財政監督までをも

強要したのである。

これらの一連の信義なき日本外交に対して、北は憤慨し、

『支那革命外史』の執筆に取り組んだのである。

第6節 満蒙独立運動

6-1 内田良平と川島浪速

大正5年初頭に、内田は川島浪速と満蒙独立運動に関して謀議している。

川島浪速は粛親王の厚い信頼を受け宗社党を指導して満蒙独立運動にはやくから

加担していた日本人である。

この川島浪速の要請によって内田は大連に行き、彼と満蒙問題について話し合い、

その結果を持ち帰って満蒙独立運動に関する政府の承認を確保した。

内田はその後、5月から6月上旬まで朝鮮・満州を何度も往来し、

明石元二郎・川島浪速と協力して巴布札布軍を支援した。

日本に帰国すると内田は「満蒙及西蔵ノ三地域ヲ切断シテ宣統帝ノ統治ニ委スルト共ニ、

日英露ノ保護国トシテ英露両国ノ部分的保護権ヲ限定シ、而シテ帝国実ニ之レガ

統轄的保護者タル地位ニ立ツコト」を政府に建言している。

これは、すでに英露の勢力圏にある西蔵と外蒙古を日本の実質的勢力下に転換し、

中国本土の分割の危機を回避しようとする内田の策である。

内田の胸奥深くに抱いていたものは、実に日本のアジア防衛の任務であった。

この任務を遂行できるのはアジアでは日本以外にあり得ないと確信し、

たとえ中国人の一部にある民族主義と氷炭合い入れぬものがあっても中国自ら

列強諸国による中国分割の野望を粉砕できない。

にもかかわらず理不尽な排日運動に熱狂したり、事大主義によって列強を誘引し

侵略を招来する対応をすれば、日本の国防とアジア全体の自衛手段として、

中国民衆のためを慮って非常措置をとらねばならないと内田は考えていたのである。

しかしながらこの内田の建言は虚しく空を切るかのように政府は取り上げ、

実行することはなかったのである。さらに6月6日の袁世凱の死去により、

日本政府は議会対策にその関心を集中し、蒙古独立運動の指導者巴布札布に対する

援助も打ち切り、粛親王と独立運動の日本人参加者への圧力も重なり、

とうとう巴布札布は失意のうちに非業の死を遂げたのである。

これが原因となったのか、下村馬太郎が大隈重信へ爆弾を見舞う事件が発生した。

この事件に連座して国民外交同盟幹事福田和五郎が投獄されたのである 。

6-2 北一輝との比較

満蒙問題に関しては内田良平とは真っ向から鋭角的に対立するのが、北の見解である。

北は宗社党のようなものを使って満蒙独立運動を指導するのは愚策であるという。

というのは蒙古は独立民族の独立地であるが故に、宗社党の「貴親」等が「枕する」所は

どこにも存在しないのである。

日本は北に一国を建国する土台もなくその必要性も存在しないと北は主張する。

蒙古は古代韃靼の領土であり、明治大皇帝と日露戦争十万の霊を祭るべき地であり、

中華民国でも支那でもないのである。

有賀博士の言う主権譲渡論は誤謬の見解である。

ところで、南満州は日本の血を贖ってロシアから獲得した領土であり、

二個の主権を存続するという未解決の状態は日露両国親善のためではない。

北満に関しては英国の妨害が存在しなかったら、日露戦争当時に確保できた領土である。

今度は中国にロシアと戦ってもらわねばならない。

そうすれば、日本が中国の領土保全のために日露戦争を戦った重みがわかり、

中国は日本に感謝するだろう。

天下の誤策とも言うべき桂公から加藤外相に継承された「露国同伴政策」から脱却して

「日露戦争の天命」に復帰することによって「外交革命」を達成しなければならない。

新興国となった中国は今や一撃のもとに、爪牙なきロシアを打倒できる。

その結果中国は外蒙古と内蒙古を得、日本は南満州と北満州を得ることができる。

内外蒙古は中国が存立するための絶対条件である。

中国が日本の後援によって内外蒙古を獲得することは、西蔵を維持し、

中国全体を保全できる保障を得たようなものであると北は高らかに主張するのである。

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長年教育の場で、働いてきました。 前半は、日本の小学校で、 後半は日本の高校、日本の大学、 中国とベトナムの大学で日本語教師という風に! 今年2018年6月に日本に帰国しました。