北一輝と初期社会主義運動 ― その接点と断点 ―

 

はじめに

北一輝の『国体論及び純正社会主義』が出版された当時は初期社会主義運動は

思想形成の黎明期であった。

日本の社会主義者は社会主義国家を作ろうと懸命であった。

特にドイツの影響があったが、北一輝の思想からも影響を受けたということが

明らかになりつつある。

この部分については、意外と知られていないものの初期社会主義者にとっては

意味のあることだった。

北一輝の純正社会主義とは如何なるものであろうか。

それを明確にするには、初期社会主義運動との共通点と相異点を

明らかにしなければならないと思う。初期社会主義運動との接点はどこにあるのだろうか。

また、断点はどこで生じたのであろうか。

北一輝の処女作である『国体論及び純正社会主義』が、

社会主義者に多大の反響を与えたという事実を勘案すると、

両者の接点としては、次のような点がとりあげられる。

まず第1に、時代の流れを「逆倒」させる「所謂国体論」を痛烈に論破したこと。

第2に、当時の理想像から遊離していく明治国家の政治・経済・社会的矛盾を摘出した点。

第3に社会進化論に基づいた理想的な社会像を構想したこと。

等である。

北一輝の政治思想の核心は「純正社会主義」である。

彼の純正社会主義思想は当時流行した社会主義思想にどのような影響を与えたか。

本論は北一輝の「純正社会主義」の思想と初期社会主義運動との関係を明らかにすることに

目的がある。

この目的を追求するアプローチとしてまず、

Ⅰでは、北一輝の処女作である『国体論及び純正社会主義』は初期社会主義者に

どのような影響を及ぼしたかを考察する。これを確認した上で、

この著作のどのような点が特に社会主義者の注目を集めたのかを明らかにしていきたい。

これによって、自ずから初期社会主義運動との接点が垣間見られるのではなかろうか。

Ⅱにおいては、日露戦争に対する態度が、

北一輝と初期社会主義者とは相反してしまったのであるが、

どのような理由によって、両者はそれぞれ違う道を歩んでいったかを追求する。

ここからその断点が浮き彫りになると思われる。

接点と断点を踏まえた上で、結びにかえてでは、

純正社会主義の根幹と初期社会主義者たちの思想の核心との相異点を明らかにする。

Ⅰ 処女出版『国体論及び純正社会主義』の反響(接点)

1 北一輝の主な主張(歴史観と状況認識を中心に)

北一輝が心血を潅いで書き上げた処女作『国体論及び純正社会主義』は、

当時の知識人に想像を絶する程の反響をもたらした。

特に、社会主義運動に挺身している人々には、万雷の拍手でもって迎えられるかの如くであった。

例えば、片山潜は、北一輝の著作は、社会主義に関する著作の中では最大級のものであると

絶賛した。

また木下尚江は北一輝は、おそらく一大思想家であるにちがいないと評価した。

さらに、経済学者福田徳三は、北一輝に手紙を書き送り、

社会主義理論として『資本論』には及ばないが、世界的大著述であると惜しみない賛辞を送った 。

自由党の板垣退助もこの書物が20年早く生まれていたら、

伊藤博文のシステムに対抗し得る指導理論となり、

その後の歴史が大きく変わっていただろうにと悔やんだ程であった。

このように評価された根拠は後述する。

にもかかわらず、発行から6日目には発売禁止となり、ことごとく没収されたのである。

これは、加藤高明が「東京日日新聞」に不穏文書であるので発禁にすべきとの記事を

書いた結果である。

北一輝の著作は発行から6日目に公の場から消滅したにもかかわらず、

その著作の内容は大きな反響を当時の初期社会主義運動に与えた。

何故このように北一輝の処女作が、特に社会主義者に歓迎された理由は何か。

初期社会主義者に大きく影響を与えた部分は著作の中での              である。

そこで

彼は、この著作の緒言の中で次のように述べている。

「著者の社会主義は固より『マークスの社会主義』と云ふものにあらず、

又その民主々義は固より『ルーソーの民主々義』と称するものにあらず。

著者は当然に著者自身の社会民主々義を有す。

著者は個人としては彼等より平凡なるは論なしと雖も、

社会の進化として見るときに於ては彼等よりも五十歳百歳を長けたる

白鬚禿頭の祖父曾祖父なり 。」かくの如く、

北一輝は大いなる自負を持ってこの著作を書き上げるのに雄渾の筆を揮った。

特に普通選挙運動について彼の主張するところは圧巻であり、時の初期社会主義たちの

共鳴するところとなったと思われる。

北一輝によると、「『投票』は経済的維新革命の弾丸にして普通選挙権の獲得は弾薬庫の

占領なり。

法律戦争以前の革命は常に血の膏によりて其の回転を滑らかにしたり、

投票の弾丸による革命は拍手喝采を以て其の舞台を開く 。」ものである。

普通選挙権の主張と社会は常に進化するものと考えて、

その進化は階級闘争を通じて達成できると考えた。

しかし、階級闘争の手段として彼が考えたのは、当時の知識人が誰も考えたこともない

普通選挙権を通じた投票であった。

その投票は武力的なものでなく平和的であった。

世界のどこでも実践されていないことを主張した。

日本の歴史の解釈で明治維新以降政治的変換を少数の資本家・大地主が主体となる体制で

維新革命から「逆倒」したという問題意識は一緒だった。

ところで、その内容であるが、日本は「維新革命」から明治23年まではいわゆる

孟子の説く政治的理想なるものが全部実現した。

換言すれば、「プラトーの『社会とは個人の全部にして個人とは社会の部分なり』と云へる如く、

国家の全分子を以て国家なりと云ふ所の社会民主々義の世に至れるなり。」と

北一輝は解釈している 。

「維新革命」というのは、国家意識が発展し、民主主義が旧社会の貴族主義を

打破したようなものである。

それは、ペリーの来航により攘夷の声を挙げ、日本民族が一社会一国家であるという

国家意識を下層の全分子にまで拡汎したものである。

日本国民は、沖合いの黒船によって、日本帝国の存在を電流が流れるように頭脳に刺激を受けた。

さらに、北一輝が何故明治維新を高く評価したかは次の彼の表現でわかる。

「實に維新革命は国家の目的理想を法律道徳の上に明かに意識したる点に於て社会主義なり、

而してその意識が国家の全分子に明かに道徳法律の理想として拡張したる点に於て

民主々義なり 。」

しかしながら、明治23年の帝国憲法以後は天皇と帝国議会により構成されるものを

最高機関として組織した。

すなわち「『統治者』とは国家の特権ある1分子と他の多くの分子との意志の合致せる

一団となれり。」と北一輝は分析している 。

その結果、大資本家・大地主による経済的貴族国が出現し、

さながら中世の「家長国家」に「逆倒」しつつあると北一輝は述べ、

「實に今日の所謂大資本家といひ大地主といふ者は単一なる富豪にあらず国家の経済的源泉を

私有して殺活与奪の自由あることに於て全き意義の大小名なり 。」と断定している。

さらに、敷衍して、北一輝は貧困と犯罪の原因がこの経済的君主経済的貴族の

「秩序的掠奪」にあると見做し、社会主義を実現することによって

この人生の悲惨醜悪なものである貧困と犯罪を社会より根絶できると。

このように、著作の中で日本の歴史的分析を稠密に探求することによって、

また社会進化論に基づき純正社会主義を経て、世界連邦に至っていく過程・方向性を明示した。

特に明治維新以降についての日本歴史の北一輝の分析は興味を喚起させられる。

日本はこの明治維新によって、中世貴族国家から「公民国家」すなわち現代国家に進化したが、

当時の日本は「逆倒」していきつつあった。

この「逆倒」の原因を北一輝は綿密に分析している。

それは、政治的には「官吏専制」であり、経済的には大資本家・大地主による

「偏局的分配構造」であった。

このような問題や矛盾からあらゆる社会的悪弊が生まれ、

「家長国家」に陥り、中世貴族国家に転落していくと判断した。

 

2 初期社会主義運動

一方、当時の社会主義運動はどのようなものであったかというと、20世紀の幕開けである

1900年に、専制的な山県内閣が制定した治安警察法が猛威を振るった。

治安警察法は第17条で労働者の団結なるものを禁止したのである。

まさに、社会主義者にとっては、逼塞した状況を甘受せざるを得ない程であった。

にもかかわらず、翌1901年には、幸徳秋水・木下尚江・片山潜・安部磯雄等が中心となり、

社会民主党を創立したが、治安警察法第8条第2項違反という口実で即日禁止という

結果を招来したのである。

社会民主党が禁止された後、初期社会主義者は、再度社会主義協会を復活させ、

理論研究と啓蒙活動に挺身した。

こうして社会主義者は、1902年から日露戦争勃発に至るまで、

政治運動・労働組合運動双方に係わることがなかった。

それ故、政府に脅威を与えることがなかったので、抑圧されもしなかったので、

この時期一時的な社会主義隆盛の風潮を醸成するという皮肉な結果となった。

こうして、日本の社会主義理論は、安部磯雄が執筆した社会民主党宣言に生かされた

理論(8項目の理想すなわち、人類平等主義・軍備全廃・階級制度廃止・

土地資本の公有・交通機関の公有・財産分配の公平・参政権の平等・教育の機会均等)を

基礎として 、その上に1903年刊行の幸徳秋水の『社会主義神髄』と

片山潜の『わが社会主義』の理論を最上壇に据え、形成してきた。

この理論の発展というものは、実践的なものではなく、

日露戦争という中での非戦の戦いによって、はじめて実践的な試練の

渦中に入ることになるのである。

初期社会主義者は西欧の思想、社会・労働運動をそのまま受け入れ、

当時の日本社会に適応しようとするのが精一杯だったので、

彼らの思想の中で日本・日本人という一番考慮すべき日本的状況という点が脱落していた。

ところで、当時の初期社会主義の原点ともいうべき幸徳秋水の『社会主義神髄』を垣間見ると、

次のような部分がある。

「○教授イリーは社会主義の主張を剖拆して、四個の要件を包有すと為す、言頗る当を得たり。

所謂四個の要件とは何ぞや。

○其一は、物質的生産機関、即ち土地資本の公有是れ也。…

○要件の第二は、生産の公共的経営是れ也。… ○要件の第三は、社会的収入の分配是れ也。

○要件の第四は、社会の収入の大半を以て個人の私有に帰すること是れ也。…

○イリーの所講社会主義の四個の要件は上の如し。

予は之に依て略ぼ其主張の在る所を窺ふを得たるを信ず。

然り社会主義は實に此等要件の實現を以て、

社会産業の歴史的進化に於ける必然の帰趣と為す者也。 」

これは、イリーの理論の直訳的解説である。

イリー教授の主張の主な内容は、土地と資本の公有・社会収入の大半の個人分配を

論じるものであった。

これらに対して幸徳秋水は社会主義を実現させるためには、社会産業の歴史的進化が必要であり、

その条件としてイリー教授の主張を認めた。

この幸徳秋水の著作は、初歩的なマルクス流社会主義の解説書として、

世界のどこにあっても共通するものであろう。

つまり幸徳秋水の考えでは、当時の日本の主な経済問題は、当時の西欧が抱えた問題と

同一だと考え、その解決案においても西欧社会主義者が唱えている解決案をそのまま

受容する姿勢であることが明らかである。

とにもかくにも、幸徳秋水は日本的な指針を示してはいないし、

このような認識は当時の初期社会主義者たちに共通するものであっただろう。

それ故、初期社会主義者は維新革命以降、何故日本の政治・経済状況が

「偏局」していったかを深く考慮する余地がなかった。

日本文化の伝統なるものを捨象してしまっている。

結局、日本の初期社会主義運動には、日本的歴史認識及び状況認識が欠落し、

当時の権力者・資本家・大地主との現実的妥協点を見い出そうとしなかった。

この点は西欧の社会主義運動と共通する部分である。

日本独自の歴史的、文化的伝統と断絶してしまっているのではなかろうか。

上記のように考えていた当時の社会主義者は日本の歴史や社会認識に徹底して自分なりの

改革案・全分野に及ぶ解決案が出された北一輝の著作は彼らには衝撃的なものであった。

それで彼らは北一輝を政策立案者であり、理論家であり、開拓者というすべての面を

現出してくれたと評価したと考えられる。

それで自分たちの仲間として受け入れたと思われる。

Ⅱ 日露戦争への態度(断点)

1 北一輝の態度

ここでの断点は北一輝の思想に対する社会主義者の認識の変化を意味する。

まず北一輝の日露戦争に対する言動を考察してみる。

北一輝と初期社会主義運動の分岐点は、まさに日露戦争に対処する言動で垣間見ることができる。

このような状況認識であったという点において、北一輝のつぎのような記述からも

当時の時代状況を捉えることが可能である。

「露国に対する開戦、然らずむば日本帝国の滅亡。… 満州問題の解決如何は、

渾ての憂国者が慨論痛語する如く、実に日本帝国の存在と滅亡とを事実を以て予言せしむ。

希くは吾人をして帝国の幼弱なる一員として少しく其の言を為すを許せ。

臥薪嘗胆の血涙を揮って、同胞の血しほにて染めたる遼東の地図を還したるは何が故ぞ。…

満韓の領奪によりて無限無涯の西比利亜の開発せらゝるの日は拳石大の日本群嶋は吾人は断言す、

大露西亜帝国の一舌皷の下に呑下されむ。」

危機意識の極みが実際に、肌身に伝導してくるかのようである。

また、社会主義者にたいしては、北一輝は痛烈に批判している。

彼なりの社会進化論によると、その当時の日本国家は必ず存在すべきものであった。

その当時の帝国主義者の主張を認めたり、支持したりするためではなく、

日本という社会が更なる進化を遂げるための大前提であった。

北一輝の思想の中では当時の日本国家を維持・保全させることに目的があったのではない。

その根拠は北一輝が日露戦争を実質的に主導した当時の大資本家・大地主を

「経済的君主」として表現し、国家の反逆者であると断定したことからも

彼が帝国主義者を支持したわけではないということがわかる。

一方、戦争に反対していた社会党に対しても、国賊の地位に甘んじたり、

国家を否定するなど惑乱するのか。と不信がるのである。

その批判の根拠を詳細に表わしているものは次の北一輝の言葉である。

「彼の矯々として戦勝熱の沸騰せる中に立ちて非戦論を唱へたる日本社会党の志士と、

及び彼等の云為を材料として日露戦争を否認せし万国社会党大会とは、

實に事実を無視するの甚しき、日露戦争とは単に満州朝鮮に利害を有する

資本家等の悉に起したるものなるかの如く解す。

日本の渺たる三井岩崎が今日斯る力ありと考ふるならば直訳的慷慨も極まる。…

日露戦争の意義に対する北一輝の見解を見ると、 日露戦争の動機の多くは国家的権威の衝突にして

戦争を要求したる根本思想は實に尊王攘夷論の継承にありと。…

社会主義の運動が根本的啓蒙ならざるべからざるを主張する所以にして、

戦争は軍人の名誉心の為めに戦はるゝにあらず、資本家の利益の為めに戦はるゝに非らず、

實に尊王攘夷論の国民精神なり 。」と述べている。

つまり、日露戦争は軍人の名誉や資本家の利益の為の戦争ではなく、国家間の対立であって、

その原動力となったのは維新革命を引き起こした「尊王攘夷論」での「国民精神」の

延長線上の国民精神であったと解釈している。

このような主張には北一輝の明治維新についての歴史認識との深いかかわるがある。

北一輝は明治国家を国民精神が基になった公民国家として捉えている。

当時の日本は明治維新を引き起こした時の尊王攘夷論の国民精神がそのまま存在し、

社会主義者が主張するように資本家や大地主が支配する状況ではない。

日露戦争も彼らの利益を追求する戦争でなく国家の対立で国家の安全を要求する

国民精神によって引き起こされたものである。

北一輝がこの処女作を執筆していたのは、日露戦争の渦中であった。

軍事強国露西亜に侵食されんとする極東の一小国が、恐怖と興奮の中で悶えているまさに、

国民的狂熱の雰囲気の中で完成していったのであることは北一輝の迸る強弁によって了解できる。

さらに、北一輝は佐渡新聞にも再三投稿し自分の主義・主張を披瀝している。

「吾人は社会主義の為めに断々として帝国主義を主張す。

吾人に於ては帝国主義の主張は社会主義の実現の前提なり。

吾人にして社会主義を抱かずむば帝国主義は主張せざるべく。

吾人が帝国主義を提げて日露開戦を呼号せる者、基く所実に社会主義の理想に存す。…

貧民の味方たる時に於て吾人は世の帝国主義者の敵たるべく。

外邦の帝国主義者に敵たる時に於て吾人は世の社会主義者の味方たる能はず 。」

この中の帝国主義はいわゆる帝国主義とは違うということも北一輝はしきりに主張している。

無謀な侵略に対しての刃には刃をとって刃向かう防衛的なものである。

「社会主義者なる吾人が日露開戦を呼号するはスラヴ蛮族の帝国主義に対する正当防禦なり。

謂はば富豪の残酷暴戻に対して発する労働者の応戦と些の異る所なき者なり。

あゝ社会主義者よ、何ぞ富豪の帝国主義に強硬にして外邦の帝国主義に服従を強ゆるや。

愚なるかな、社会主義の徒 。」

社会主義者の矛盾した行為を鋭敏に指摘し、

本来の姿に引き戻そうと呼号するが果して徒労であるのか。

「政治家の侵略に対して国家の正義を主張する帝国主義なくば、国民の正義を主張する社会主義は

夢想に止まるべし。

日露の開戦は経済的諸侯の貪欲なる外侵にあらず、皇帝や政治家の名利より出づる外征にあらず。

世界併呑の野蛮なる夢想に対して、満韓に膨張せる国民の正義を、

国家の正義に於て主張する者なり。 ― 国民の正義を主張する社会主義が

日露開戦に反対するとは何事ぞ。

否、是を以ての故なり、 ― 露骨に云はしめよ。

今の社会主義者が腐儒学究と誤らるゝは是を以ての故に非らずや。

彼等は徒らに欧米社会主義者の口吻を学びて日本国の地位といひ脚下の現実を閑却せる者なり 。と

主張して、北一輝は社会主義者の地に根のはえない非現実性を痛罵するのである。

 

2 初期社会主義者の態度

以上のように北一輝が激越に批判する如く、初期社会主義者は、非戦論を展開していくのである。

幸徳秋水・木下尚江をはじめとして、ことごとく非戦論者であった。

明治36年10月に社会主義協会は非戦論の演説会を開催している。

その演説会の弁士の1人である西川光次郎はトルストイの戦争論を紹介して満腔の気を吐いた。

「戦争の第1の原因は財産の不平等に在る。

財産不平等の結果として、貴族は己れの富を保護せしめんが為に軍隊を作るのである。

彼等は外敵々々と云ふが外敵よりも内敵で、彼等は常に我々貧乏人に対して

宣戦を布告して居るでは無いか。

又財産不平等の結果として、多くの人が黄金崇拝の病に罹り、

曾て火事場泥棒に不正の金を得た経験のある者は、戦争の味が忘れられぬ事になるのである 」

「戦争の第2の原因は軍隊や軍艦の存在である。

軍隊や軍艦は平生絶えず殺人の法を研究して居るものである、

彼等は決して犬を殺す事を研究して居るでは無い、そこで其研究がツイ応用して見たくなる、

生兵法大傷の元で、千載一遇の機、そら来たかと云ふ事になる 」

第3の原因としては、教育家と宗教家が誤まった事を教えるという点にあると主張し、

最後には、戦争を絶滅する方法を説き、聴衆を感動の渦に巻き込んだ。

安部磯雄も、この日弁士として登壇した。

その説くところは、欧州の非戦国瑞西のことを鏤々述べ、「軍備は無くても生存は出来る」

「此方で軍備を撤すれば敵も安心する」

「ドッチか一方が先に罷めねば喧嘩の収まる時は無い」ということであった。

そして、演説の結論としては、「若し平和が人道であるならば、平和を世界に宣言して、

それが為に一國が亡びても善いでは無いか」と述べている。

さらに、木下尚江も弁士として演壇にてその思想を説いている。

「世には一種の迷信があって、一國存亡の場合には万事を忘れて一國に殉ぜねばならぬと云ふが、

平生は世界の人道を信じながら一大事の時には之を抛つが果して人間最高の理想であるか、

一國の思想を以て人類共通の思想に打勝たせるのが果して正当であるか、

我々は今日本國本位の倫理学を教へられて居るが、

若し我々が益々人道を信ずるならば此一國家的倫理主義を打破らなければならぬ、

ドコの國に行っても此一國本位と世界本位とで争って居るのである、

露にも英にも我々の同志者があって共に世界の大改造を企てゝ居るのである、

我々が第1に考へねばならぬ問題は日本國民といふ事は無く人類の一員と云ふ事である、

日本の青年が若し此考を以て進むならば私は其将来の甚だ大なる事を思ふ者であります 」

ところで、幸徳秋水と堺利彦が、平民社を結成したのは、

前記の演説会の翌月1903(明治36)年11月のことである。

当時、国内には対露強硬論が渦巻き、日露両国の関係は、

確実に開戦に向かって進みつつある状況であった。

こうした中で、幸徳と堺にとって非戦論は社会主義論の重要な一環として早くから

主張されていたところであったという 。

特に幸徳秋水は、週刊『平民新聞』紙上で、戦争反対を再三絶叫していた。

つまり、「われわれは、絶対に戦争を否認する。これを道徳の立場から見れば、

おそろしい罪悪である。これを政治の立場から見れば、おそろしい害毒である。

これを経済の立場から見れば、おそろしい損失である。

社会の正義は、これがために破壊され、万民の利益と幸福とは、これがためにふみにじられる。

われわれは、絶対に戦争を否認し、戦争の防止を絶叫しなければならない。」と幸徳は

強調していたのである 。

この当時の風潮は、政府も民間も、戦争にまるで熱狂しているかのようであった。

木下尚江も、「戦争を讃美せざるものは人にして人に非るが如き輿論の狂熱の間に立ちて、」

少数の同志とともに非戦論を絶叫したと書きつけている。

さらに木下尚江は当時の時代情勢を次のように述べている。

「幸徳が非戦論を提げて万朝報社を退き、新たに平民社と云ふを立て、

「平民新聞」と云ふ週刊新聞を発行しました時、醗酵し鬱結して居た日本青年の苦悩は、

この一新聞紙を仮りて一時に爆発しました 。」また、当時の社会主義者についても、

よく分析している。

すなわち「当時の社会主義者と言ふものは、其実、非戦論の旗章に熱狂した

反抗児の烏合の群集で、決して主義思想の下に統一された党類でも結合でも無かった。

去れば日露戦争の終局を告げた時は、彼等「社会主義者」も亦た

四散五裂の運命に到着した時なので、平和条約の公表に先だちて、

所謂非愛国的青年の梁山泊「平民社」が自ら解散式を挙げたのは、何の不思議も無い。

彼は改宗を宣言するの準備として、暫く旧同志の顔を避けて米国へ渡った 。」

木下尚江がここで彼といっているのは、幸徳秋水のことであり、改宗を宣言するとは、木下尚江の

言を借りると、「マルクスの傾向を抛って、バクニンの徒となった。 」ということである。

以上のことから、北一輝と初期社会主義者の牽引者である幸徳秋水の日露戦争に対する見方を

整理すると、北が、日露戦争をやむを得ない戦争と捉えたのは、「維新革命」によって成立した

「公民国家」からさらに「純正社会主義」へと進化していく途上にあり、

ロシアの植民地になれば、その理想を実現できないと考え、開戦論者になったのである。

北一輝は所謂社会主義を評して、日本社会党の非戦論は無抵抗主義の宗教論であると痛罵し、

今の所謂『社会主義』と称しているのは、純然たるユートピア的世界主義で、

『国家』を理解せず否定する盲動なるものだと断定している。

一方、幸徳秋水は、あくまでも社会主義者の立場から戦争を絶対悪として見、

非戦論を唱えたのである。

 

結びにかえて

1 初期社会主義者の目指したもの

前述したように、日露戦争は北一輝と初期社会主義運動に携わったものに大いなる

分水嶺となったのであるが、それは日露戦争後にも尾を引いていくのである。

ここでは、戦後、初期社会主義がどのような経緯をたどったかを明らかにすると同時に、

北一輝の思想を追求していきたい。

日露戦争が勝利のうちに、終了し、『平民新聞』が廃刊になると、初期社会主義も分裂し始めた。

元来、戦前における社会主義は3区分し得る。

第1は、自由民権運動の流れを汲む民権左派の系列で、幸徳秋水に代表されるもの。

第2に、欧米的労働組合主義や議会主義と係わる社会主義の系譜であり、

片山潜・高野房太郎等を代表とするもの。

第3に、安部磯雄・木下尚江・石川三四郎に代表される

キリスト教社会主義につながっているものである。

先ず最初に、常時初期社会主義運動の牽引者であった幸徳秋水は、

もともと自由民権思想に携わっていたが、明治30年代になると、社会主義を信奉しはじめ、

マルクス主義の理解者となった。

明治38年の頃から無政府主義者に転身し、直接行動論を唱え急進化していった。

その結果故か、明治44年には、「大逆事件」の廉で逮捕され、絞首台の露と消えてしまった。

この事から、初期社会主義は、穏健な社会主義→急進化→弾圧→壊滅という

経過を経ていくのである 。

前述したように、1900年の治安警察法制定以降、組織労働者は皆無の状態であり、

1908年以降ますます弾圧が激烈になり、労働者を組織化するのが絶望的となった。

このような状況から、直接行動論は幸徳秋水の主張するゼネラル・ストライキから

宮下太吉・菅野スガの爆弾による天皇暗殺へと転換していくのである 。

実に逼塞状況に追い込まれ、最悪の方向へと突き進んでいった。

次に、片山潜であるが、日露戦争下の1904年8月に、アムステルダムでの

万国社会党第6回大会に日本代表で参加し、露西亜代表プレハーノフと一緒に副議長に

選ばれたのである。

日露戦後、キリスト教社会主義の「新紀元」社が初期社会主義運動から離脱してからは、

この片山潜を中心とする系譜と幸徳秋水の系譜が主流となり、

お互いに激烈に対立していくことになる。

片山潜の方は、合法的議会主義的でいわゆる右派とよばれた 。

キリスト教社会主義を代表とする木下尚江は、日露戦後『新紀元』を発行し、

精力的に論評を重ねた。彼は思想家として大いに活躍したが、苛酷な政府の弾圧のため、

キリスト教社会主義者の方法では運動を展開し続けるのは絶望的だと判断し、

「旧友諸君に告ぐ」(『新紀元』第12号)を掲載した。

その中で、彼は「既に議会を離れたる僕の心は、 … 国憲国法の偽名に依て迫まらるゝ

権力階級の虐殺に対して、剣と火とを揮って之に逆か寄せすることは、

是れ今日の大勢が産み出すべき平民階級必然の運命なり。 … 僕は暴力的革命に向て真に

多大の興味を感得す。

然れども僕は基督教徒也。 」と述べ、政治運動から完全に離脱していった。

以上のことから判断すると、日本の初期社会主義者の目標の1つである普通選挙なるものは、

単に議会の中に代表者を送り込みたいということに過ぎなかった。

このような議会主義的な戦術はその当時最大の労働者党であるドイツ社会民主党の

マルクス主義的な影響を蒙っていたものと推測される。

その後、社会主義の目標が議席獲得にあるのではなく、権力打倒に存在すると認識した時、

初期社会主義者群中から幸徳秋水・大杉栄等がアナーキズムに転位したことも、

初期社会主義の根無し草的存在なる点が浮き彫りになる。

そのことに関して、北一輝に言わせると、彼等の多くは感情と独断によって行動し、

その主張も純然たる直訳のものであって、根本思想はフランス革命時の個人主義にすぎなかった。

つまり彼等は社会主義というよりも、社会問題を喚起した先鋒としての

役割を果したのであるという 。

 

2 純正社会主義の思想

ところで、北一輝の「純正社会主義」であるが、西欧社会主義思想を踏まえ、

独自の創造の産物である処女作『国体論及び純正社会主義』・『支那革命外史』から

『日本改造法案大綱』まで「純正社会主義」の体系なるものは、

大きく修正、変更されることなく、そのエキスは首尾一貫して変わることがなかった。

北の国体論における思想の出発点は、国家・社会の進化についての徹底的な確信に他ならない。

当時の日本の社会は、北にとって、明治維新によって、

中世貴族国家から「公民国家」つまり現代国家に進化したにもかかわらず、

「逆倒」しつつあった。この状況を目前にした、社会進化論者としての北にとって、

その「逆倒」は当然不当なことだったのであり、その原因と解決策を探ると共に、

その後、日本という社会・国家がどのように進化していくべきかを模索することは、

彼の思想の展開における自然な一連の道筋であったと思われる。

「逆倒」の原因として、北が提示したのが、政治的には「官吏専制」であり、

経済的には大資本家・大地主による「偏局的分配構造」であった。

このような問題や矛盾からあらゆる社会的な悪弊が生じ、「家長国家」になり、

中世貴族国家に転位していくと、北は判断した。

このような問題点の必須の解決策として、北が提案したのが、「官吏専制」については、

官吏採用の改革とともに官吏と他の機関との「偏局的経済的分配構造」を

均等化させることであった。そして、大資本家・大地主による「偏局的経済分配構造」の

解決策として、提案したものは、大資本家・大地主の私有財産権の制限つまり、

彼らの財産規模の規制と一般民衆の最低限の私有財産権の保護であり、

生産手段の社会公有であった。このような彼の解決策は、現在の視点から見ても、

非常に合理的であり、これは1950年代以降の修正資本主義体制や

福祉国家システムにおける経済政策に近接している。

なお、このような原因を除去すれば、個人主義や個人の特性の発展を触媒として、

社会進化は進行していくのである。

つまり、社会進化のための絶対的条件として、経済的分配の均衡や「富有」と

個人主義が挙げられているのである。

北の「公民国家」では、国家に主権があり、天皇と国民が権利行使の手段は所有しているが、

国家に対して義務を負っていた。

しかし、国家はいずれ無くなる存在であると見做されていた。

しかし、北の進化論に基くと現代国家は中世貴族国家から「純正社会主義」さらに

世界連邦に進化していく過程を経過しなければならない中間的段階の存在である。

このような現代国家としての当時の日本社会について、進化論者である北は、

社会進化の途上において、邪魔になる勢力や、弊害を解決するにあたって、

現代国家としての「公民国家」システムを確固とした存在に

規定しなければならなかったのであろう。

さらに日露戦争による現代国家システムそのものの存亡の危機を目前にし、

自主的に現代国家のシステムを完成させようと努めた。

例えば、様々な国民の権利・義務、天皇の権利・義務、「官吏専制的権力」の

牽制システムとしての「司法官」の採用方法 、階級対立の解決手段としての

普通選挙権制度の導入、経済力集中の抑制制度としての私有財産権及び土地所有の制限、

社会の「富有化」のもとであらゆる階層における所得の公平化の模索、

「経済的富有化」および個人主義の達成による社会道徳の進化・秩序の安定などが挙げられる。

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