日本語教師になるまでの社会的活動と今後の計画

これまでの社会的活動

私は、大学卒業後、銀行に勤務していたが、教育界へと転進し、

小学校教諭を7年半、高等学校教諭を26年間勤めてきた。

小学校教諭は全科目を担当し、学級担任として種々の行事や雑務もこなしてきた。

高等学校教諭としては26年間という長期にわたって、

学級担任、教務部、進路指導部等の仕事に携わってきた。

教科指導以外では、自主性を生かす演劇部顧問としての演技指導や、

米国オハイオ州デイトン市でのホームスティ引率などを経験してきた。

また関西のK大学の非常勤講師として7年間、現代社会論などを教えていました。

高校教諭を定年退職後は、長年の教育現場での

経験・知識・知恵を活かせる道を考えていたところ、

WJLC(ワールドジャパニーズランゲージセンター)に遭遇し、

420時間通信講座で日本語教師の受験資格を取得できた。

講座修了後、神戸の日本語学校の非常勤講師に採用され、

その後ベトナムや中国の大学で日本語教師として赴任したりしてきた。

日本語教師の道は、日本の文化・歴史・言葉の伝道師であるとの自覚を持ち、

日々努力しているが、日本語を教えるということは、

自由に使えるからといって単純に容易にできるほど生易しいものではない。

日常使っている日本語を客観的に考察し直し、より効果的な指導法を考えなければならない。

日本語教師として、言語においても、その背景知識においても、

学習者を取り巻く環境への配慮においても、常に情報収集し、

さらに豊富な知識を得る努力をしなければならないと思う。

日本語を教えるということであるが、日本語を言葉としてだけ教えるのではなく、

その言葉にはその言葉を使用する国の文化・歴史・伝統・習慣と密接不可分なものがある。

日本語教師は、言葉として日本語に最も深く関わっているという自覚を持つべきだと考える。

今後の計画

私が大阪大学大学院で研究を始めたのは、高等学校教諭の仕事を継続しながらであっった。

そこで、北一輝研究に取り組み始めた。

何故北一輝研究なのかというと、私が1971年に早稲田大学に入学した時期は、

前年(1970年)に、三島事件や赤軍派のハイジャック事件が起こった年であった。

入学の翌年(1972年)は、連合赤軍による浅間山荘事件があったり、

また沖縄返還闘争も激化しつつある状況にあった。

それ故、この70年代は、学生運動が大きくマスコミにクローズ・アップされ、

あの激動の60年安保世代に次ぐもので、70年安保世代と称される時期であった。

これら一連の時代背景のせいか、学生のほとんどが政治的な関心を持ち、

デモに参加したり、何らかのセクトのシンパでもあった。

そのような中で、内ゲバもあり、特に革マル派と中核派の対立は熾烈であった。

このような新左翼の間で北一輝に関する関心も昂揚を見せ始め、

ついに北一輝ブームが発生したのである。

その後、何年か経過し、あの当時の学生時代とは一体何だったのだろうという

問いかけが胸奥から鬱勃と湧出してきたのである。

とにもかくにも新左翼を中心にあれほど関心を持たれた

北一輝に対する興味が鬱勃と湧いてきたのである。

それは、北一輝とは何者か、北一輝を通して学生時代を見つめ直す作業、

それは同時に、この日本の近代以降の歴史・政治・思想等を真面目に

再考する作業ではないかと思えてきたのである。

以上の点を踏まえて、論文を書き始め、完成するまでに実に7年以上の

歳月が経過したことになる。

日本の近代政治思想に正面から取り組んできたが、

日本語教師という職をきっかけとして、日本語というものを思想とからめて、

さらに研究していきたいという思いにかられ、

前人未踏ともいうべき大胆な試みである「日本思想と日本語」というテーマを

熟考している昨今である。

その際に、北一輝の政治思想と三島由紀夫の文学等を

手がかりとして論考を手掛けていきたいという決意である。

ABOUTこの記事をかいた人

長年教育の場で、働いてきました。 前半は、日本の小学校で、 後半は日本の高校、日本の大学、 中国とベトナムの大学で日本語教師という風に! 今年2018年6月に日本に帰国しました。