日本語における教育観
日本語教師として、日本語を教える際に、その「教育観」と「学習観」は
非常に重要なものになってきます。
まず、日本語に関する「教育観」ですが、換言すると、日本語教育は
何を教育するのかということで、以下論じていきたいと思います。
言うまでもなく、日本語教育とは日本語以外の自国語を把持する外国人に対して、
日本語を教えることです。
教えるということは、自由に使えるからといって単純に容易にできるほど
生易しいものではないのです。
日常自由に使っている日本語を客観的に考察し直し、より効果的な指導法を知る必要があります。
日本語を教えるということですが、日本語を言葉としてだけ教えるのではないのです。
その言葉にはその言葉を使用する国の文化・歴史・伝統・習慣と
密接不可分なものがあるということです。
それ故、まがりなりにも日本語教師と称する場合は、言葉として日本語に
最も深く関わっているわけですので、日本および日本人の
生活習慣・歴史・文化・風俗・政治・自然・政治等のいわゆる
日本事情に通暁しなければならないし、そうなるよう日々研鑽努力すべきだと考えます。
日本語における学習観
次に、日本語における学習観について論じていきます。
日本語における学習観とは、学習者が日本語でコミュニケーションできるようになるには
どうするかということで、勘案すると、学習目標への
高度な志向性とも言えるのではないかと思います。
日本語教師として、日本語の学習者が日本語で「自分らしさ」を表現できるような
コミュニケーション能力を達成できる段階にまで助言・指導できれば、
その目的は果たせたものと考えられます。
学習言語である日本語を駆使し、自己表現できるまでに成長し、
「汝自身を知れ」の段階から「汝自当知」にまで到達できれば本物です。
その際に日本語教師が配慮すべきことは、学習者それぞれが、日本語の習得という点において、
多様な目的性を把持していることに思いを馳せることです。
よって、教授法が学習者の目的や習得目標によって相違してくるということです。
また、さらに学習者と言っても、日本国内と日本国外では
言語環境・学習環境が違うという点です。
要するに、日本語教師は言語においても、その背景知識においても、学習者を取り巻く
環境への配慮においても、常に情報収集し、
さらに豊富な知識を得る努力をしなければならないと思うのです。
そうすれば、日本語教師としての力量が、知識と経験を土台として形成されていくのです。